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ノリ必要不必要論とは本当は何なのか?

Date:1999/10/26(火) 10:21
Name:山北 篤

 RPGはゲームである。そのように言われてきた。おおむね正しい理論だと思える。多くの場合、RPGがゲームという大きなもののサブジャンルであることは言うまでもない事実である。しかし、ゲームそのものが、遊びというさらに大きなもののサブジャンルであることに着目する人は少ないようだ。つまり、RPGは、ゲームである前に、遊びでなくてはならない。

 そして遊びというより大きなジャンルの中で見渡した時、RPGがゲームであるという意見はもはや完全な正解ではない。相対性理論が登場したあとのニュートン力学のようなもので、ある一定の制限の下で近似的に正しいだけである。RPGというものが、最初はゲームから生まれたものであるにも関らず、その範疇を飛びだしかけていることが理解できるだろう。

 ノリ必要不必要論というものも、この点から理解すれば、明快である。本来それは、RPGをゲームのサブジャンルに留めておくのか、それともゲームというサブジャンルを飛び出して遊びというより大きなジャンルの中で新たな位置を見つけるべきなのか、という議論のはずなのだ。それを、ゲームというサブジャンルの中だけでRPGを理解しようとするから、ゆがんだ議論にならざるをえない。

 本論考は、遊びというものの中でRPGがいかなる位置を占めるのかを考えることで、RPGとノリについて考察するものである。その底本として、遊びと人間 を利用する。

 遊びというものを分析した論文に、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』がある。岩波書店から日本語訳も出ているから、必要ならばすぐに読むことができる。この本は、遊びというものを哲学の側から考察した現在でも最も重要な書の一つである。本論考は、このカイヨワの理論に基づいて考察を行っている。

 カイヨワは、遊びというものを、大きく四分している。アゴーン、アレア、ミミクリー、イリンクスである。この四つについて、本論考が理解できる程度に簡単に解説しておこう。詳しく知りたい人は、『遊びと人間』を読むように。

 競争、それがアゴーンである。一定のルールに基づいて、何らかの資質を競い、結果を出す。スポーツやゲームにおいて最も重要と考えられる要素が、アゴーンである。

 アレアとは、アゴーンの逆である。元々ラテン語でサイコロ遊びを意味するアレアは、プレイヤーから独立した決定を行う遊びを意味する。つまり、相手に勝つことよりも、運に勝つことが必要な楽しみである。

 この二つは、ある意味で全く逆の資質を持った遊びであるように見える。アゴーンは、当人の資質によって勝敗を求めるもので、プレイヤーの自己責任の世界である。これに対し、アレアは、当人の努力や準備などを否定し、幸運だけを求める他力本願の世界である。

 しかし、ある面において、アゴーンとアレアは全く等価なのである。それは、現実にはあり得ない平等をプレイヤーに提供しているという点においてだ。その状態から、当人の資質というものにせよ、幸運というものにせよ、平等な条件を与えられた状況で結果を求める(多くの場合は、勝敗を求める)という一点において、アゴーンとアレアは双子のように似た遊びである。

 次に、ミミクリーとは何だろうか。一般に模倣という意味で使われる。すべての遊びには、何らかの約束ごとの許諾が必要とされる。例えば、将棋でなら駒の動かす規則や王将が取られたら負けというルールが約束ごとである。ままごとなら、その場にいる人々が家族を形成し家庭生活を営むというのが約束ごとである。これら約束ごとを許容して、それらを模倣すること。これが、ミミクリーである。もちろん、ミミクリーを行っている遊戯者は、それが模倣であることを理解している。例えば、「私は鳥よ」と言って、手をバタバタさせている子供は、自分が本当に鳥だとは思っていないだろう。鳥の振りをして遊んでいるに過ぎない。

 これに対し、イリンクスは眩暈(めまい)と訳される。つまり、自らの知覚をわざと崩し、わざと自分を一種のパニック状態や朦朧状態に追い込むことで、その状態を楽しもうというものである。本来なら、そのような状態は嫌な事態であるかのように思える。けれど、人類は昔から、トランス、麻薬、ジェットコースターなど、一種の現実無化作用を持った遊びを楽しんできた。バンジージャンプなど、その極端な例である。お化け屋敷で恐がること、子供がわざとグルグル回転することなども、この例の一つだ。このイリンクスにおいて、人々は自覚して模倣するのではなく、現実を忘れ自分の心理状態を一瞬だけ飛ばして楽しむ。

 つまり、ミミクリーとイリンクスというものも、全く相反しながら、双子のように似ているのだ。現実から一種遊離した状態を自ら求めるという点で全く同じことを行いながら、片方は自分の意識を保っているのに、もう一方は自分の意識を飛ばそうと務める。

 カイヨワは、遊びの本質をこれら四つに分類したわけだ。

 さて、RPGというものを、これら4要素にあてはめて考えてみよう。

 アゴーン、それは競技型ゲームの基本要素である。RPGがゲームであって、そのようにプレイされるべきだという議論は、RPGにアゴーンの要素を大きく求める立場にある。

 アレア、運試しである。もちろん、ダイスを振るといった運試しの要素は、これまたゲームの重要な一部であって、これもRPGにゲームの要素を大きく求める立場に立っている。

 ミミクリー、模倣である。RPGのロールプレイの大きな一部を占める。自分のキャラを一生懸命設定すること。過去を作り、ライフスタイルを定め、決め台詞を考えること。これらは、まさにミミクリーの楽しみである。RPGをゲームというよりも、別の楽しみであるという立場に立っている。

 イリンクス、眩暈である。自分の無化という意味において、キャラクターに成り切ることは、まさにイリンクスの楽しみである。これまた、RPGをゲームというよりも別のものとして楽しむ立場に立っている。

 カイヨワは、これらの要素は、二つ組合わさることが多いと主張している。そしてその中には、結び付きの強いものもあれば、相容れない組み合わせもあるという。

 よく結びつくのは、アゴーン−アレア、ミミクリー−イリンクスの組み合わせである。これらは、本質的に組をなす。

 また、アゴーン−ミミクリー、アレア−イリンクスも、偶然に結びつく。競争の際に何かの模擬を行うのはよくあることだし、あまりの幸運に眩暈がすることもあるだろう。

 そして、本質的に無理があるのが、アゴーン−イリンクス、アレア−ミミクリーであるとされる。競技を行う際に眩暈は邪魔なだけだ。運試しを行う時に、何の真似をしようというのだ。

 さて、これでゲーム派とノリ派が、なぜ相容れないかがよくわかっただろう。彼らは、結びつかない楽しみを分け合っているのだ。キャラクターになりきりつつ、ゲームをプレイするのは難しい。これは、アゴーン−イリンクスが成立しにくいことのRPG的な表現である。一生懸命設定したキャラクターが、ダイスの不運だけで死んでしまうのは許しがたい。これは、アレア−ミミクリーが成立しがたいことのRPG的な表現だったのだ。

 そして、RPGにおけるノリ必要不必要論とは何なのかも、ここまで読めば理解できただろう。それは、RPGという遊びに、アゴーン−アレアを求めるのか、ミミクリー−イリンクスを求めるのか、という問題だったのだ(もちろん、アゴーンを求めるプレイヤーの中にも、アゴーン−アレア型を求める者とアゴーン−ミミクリー型を求める者はいる。イリンクスを求める者も、アレア−イリンクス型とミミクリー−イリンクス型がいる。けれど、今回は論点の簡略化のために二分することにした)。もちろん、議論している当人たちは、全く理解していなかっただろうが。

 もちろん、ゲームというサブジャンルの中においては、ノリ必要論というのが堕落であることは明らかだ。それは、ゲームの楽しさである、アゴーン−アレアを否定しているのだから。

 しかし、遊びというより広いジャンルの中で検討してみる、つまりRPGがゲームのサブジャンルでないと考えてみると、両者の価値に差が無いことは明らかである。それは、RPGを、アゴ−ン−アレアを供給する遊びであると規定するのか、ミミクリー−イリンクスを供給する遊びだと規定するのかという違いに過ぎないからだ。

 私などは、プレイヤーの希望に応じて、いかなる楽しみも供給可能な点が、RPGの面白いところだと考えている。ただ、4つの楽しみ全てを同時に供給するのが難しいことは、私も否定しない。

 同じRPGというものから本質的に相反するものを導き出そうとするわけだから、いつまでたってもこの手の議論が止まないのも当然といえば当然なのだ。

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