(C)hosoe hiromi
■このごろ堂へ

両棲人間の系譜

人魚姫

アンデルセン

フランケンシュタイン

1818年

メアリ・シェリー

人魚姫 フランケンシュタイン
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 先日、といっても何年か前、TVでやっていたシザーハンズという映画を見ていて、唐突にベリャーエフの両棲人間が、フランケンシュタイン物の一種であることに気がついた。
 よく考えてみるまでもなく、気づいてみれば両棲人間のベースは「フランケンシュタイン」+「人魚姫」だろう。
 人々から海の怪物と畏れられる世間知らずで純真な少年は、天才科学者が創り出した改造人間で、ある日海で溺れた少女を助けて恋をして、彼女を求めて陸に上がるも、彼を畏れ、あるいは利用しようとする人間社会とは相容れず、また陸に上がったことによって彼は陸での命を失うことになり、海の彼方へ去っていく。
 イフチアンドルの立場は、フランケンシュタイン博士の創り出した怪物と同じであり、しかも人魚姫そのもの。
 とはいえ主人公イフチアンドルは、その潜水服や水中眼鏡さえ脱ぎ捨てれば、ほとんど人間と変らぬ見目麗しい? 好青年だから、彼がフランケンシュタイン博士の怪物だとは、思いつきもしなかった。
 だから、シザーハンズという、ホラー色のない、おかしくて、やがて悲しいファンタジックなフランケン映画を見て、顔色が悪くて異様な衣装に身を包み、手が刃物になっている主人公が怪物に見えなくなったとき、やっとそれに気づいた次第。
 もちろん、ベリャーエフの両棲人間は、単純に「」+「人魚姫」というわけではなく、様々な要素が複雑に絡み合ってはいるけれど、それを全部一言でいえばSFである。
 この「SF」というのは、少々科学っぽい味つけがしてあって、イフチアンドルを両棲人間にしたのが、魔法使いではなく科学者であるという意味のSFではない。
 両棲人間という存在を鍵に、彼を生みだした科学。その存在を畏れる一般社会。その意味を理解しない権力者。利用しようとする資産家。存在を抹消しようとする宗教家。そして、それらに翻弄される個人を、たった一冊で見事に書き出している。
 ベリャーエフは、におけるフランケンシュタイン博士であるところのサルバトール博士を、単純に好奇心ゆえに一線を越えるマッドサイエンティストとしても、世間に理解されない善良な天才科学者としても書かなかった。
 そもそもベリャーエフは、人体改造物SF作家として有名であるけれど、その第一作である「ドウエル教授の首」は、作者自身の首から上しか身動きできない闘病生活の体験が元になっていると言われているだけあって、単純に人が改造されても、いいこともあれば、悪いこともある。つまり科学の進歩によって死んだはずの人間が生き延びることができるようになっても、首から上しか動かせないようでは、果たして幸せと言えるのか? ということがテーマの一つになっている。
 ホラーでもなくファンタジーでもなくSFだ、というのは、いずれ科学が人にもたらすであろうものが、人にとって、人類にとって、どんな意味を持つのか? を書こうとしているからだ。
 サルバトール博士は、人の両棲人間化によって人類が豊かな海を手に入れれば、人類そのものが豊かになれると考えているし、イフチアンドルのことを息子のように愛し、その行く末を心配してもいる。
 その成果に群がる人々と対決し、人類の未来の可能性を語る博士からは、気高ささえ感じられる。
 けれどイフチアンドルは不完全な上に、同類がまったくいない。しかもサルバトール博士は、イフチアンドルを不正な手段で手に入れて、自分の理想を証明するための実験材料として使っている。人々が恐れるのも無理はない、ただのマッドサイエンティストだ。
 特にイフチアンドルの本当の父親は、息子を三度失うことになる。最初は赤ん坊である息子が死んだと告げられた時、二度めは会えば通じるだろうと捕らえられたイフチアンドルと会見し拒絶された時、三度目はイフチアンドルが海の彼方へと姿を消した時。
 そして彼は全てを失い、嵐の海に向かって息子の名前を呼び続ける。
 他の全ての人々が、(偕成社版ではイフチアンドルを含めて)それなりのその後を手に入れるため、彼の、つまりやがて人類に幸せをもたらすであろう科学の発展というものに今は踏みにじられ忘れさられていく個人の悲劇が、強調されている。
 講談社版、あかね書房版における、イフチアンドルのその後の部分の削除は、わずかな救いを排除して、悲劇性を強調しているのではないだろうか。(一度原書で、確認してみたいなぁ。)
 科学は人類を豊かにしてきたし、これからもそうかもしれないけれど、個人に対してはそうではないかもしれない、という多面性を、ベリャーエフは見事に書いている。
 もちろんこの小説の楽しむべきところ、そして素晴らしいところは、そんな小難しい話ではない。海を自在に泳ぐ少年への憧れや、その恋の行方、彼の冒険、一癖も二癖もある登場人物たち、次々と明らかになっていく真相、そして別れに、ドキドキし、ワクワクし、海に想いを馳せれば、それでよい。

第四間氷期

1958年

安部公房

第四間氷期
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 さて、「フランケンシュタイン」+「人魚姫」から、「両棲人間」と来たわけだけれど、先を続けよう。両棲人間ものに填まった方には、ぜひ読んでみて欲しい作品がある。
 すぐさま手塚治虫の「海のトリトン」と言いたいところだけれど、それについては次ということにして、安部公房の「第四間氷期」というSF小説をご存じだろうか?
 1958年に発表された作品だけれども、ありがたいことに今でも文庫版が手に入るし、これまたかなり面白い。文庫一冊にぎっしりと細かい文字が詰っているので、とっつきが悪く重く感じる人もいるだろうが、その分差し引いて食わず嫌いせず落ち着いて最初の一口さえ飲み込むことができれば、あれよあれよといううちに、最後まで読み通してしまうに違いない。
 「両棲人間」の読者は、「第四間氷期」で、サルバトール博士の夢が実現する過程と、実現した世界に遭遇できるだろう。私なんか、海いっぱいのイフチアンドル、というイメージに、ポォっとしたものだ。
 しかし「第四間氷期」は、そういう小説ではない。はっきりいって、先の私のような楽しみ方は邪道もいいとこだろう。それに「両棲人間」っぽいものを期待して手にしたら、読みはじめたとたんに、ものすごくげっそりくるに違いない。ここには冒険も恋もない。ホロリともしない。あるのは風の無い真夏にアスファルトの上を歩いた時に、べったりと首筋や背中に張りついた、ねっとりとした汗のように増していく不安ばかりだからだ。お目当ての水棲人のシーンをいくら読み返しても、水棲人への憧れや、海への想いに繋がることは、まずないだろう。
 にもかかわらず、これはサルバトール博士の夢の実現である。外科手術という、天才科学者個人がチマチマと一人づつ改造してるんじゃ、いつまでたっても人類が海を手に入れるなんて無理じゃないか、という突っ込みと解答ともいえる。
 「第四間氷期」のテーマは、「いかなる未来であろうとも、断絶した未来は現代人にとって残酷である」ということだそうだ。このテーマを書くための未来は、現代の日常からかけ離れていることが明確でありさえすれば、なんでもよかったはずであり、つまり未来人が水棲人であることは主題とは関係ない。
 そして水棲人たちの暮らしは、不幸せなものではない。彼らには彼らの暮らしがあり、幸せがある。
 よくある、自分の気に食わないものが実現してしまった未来を、暗く書いたような底の浅い小説ではない。
 にもかかわらず、現代人から見れば、断絶した未来は残酷であることを、この小説は描き出している。
 サルバトール博士の未来図が、同時代人にもたらすもの。博士の行為に対して、人々が感じる不安や恐怖は、科学に対する無知ではなく、これだったのかもしれないと、私に思わせてくれた。

 ただし、もちろん、これまたこういう読み方をする小説では、絶対にない。はっきりいって切り口が変で妙な紹介で、しかもネタバレを含んでいる。この紹介は、その面白さを損なってしまった可能性があるので、謝っておく。申し訳ない。

いずれ、続く