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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

プロフィール

名前

Александр Романович Беляев

 

 アレクサンドル ロマノビッチ ベリャーエフ(1884-1942)
 ベリャーエフないしベリヤーエフ。
 キリル文字をローマ字に置き換えると、"Aleksandr Belyaev"(またはBeljaev)
 ロシアのサイトではBelaewと表記されている。
 英米表記だと、Alexandel に、Belayevだったり、Belyaevだったりする。
 Aleksandr Romanovich Beljaev
 他のベリャーエフと区別するために、A.ベリャーエフ。
 司祭の息子の生まれ、神学校を卒業するも俳優をして学費を作り法律学校に通って法律家に。そこで一山当てて外国旅行。そして脊椎カリエスによる寝たきり闘病生活に。身動きできない闘病中にさまざまな知識を蓄え、その経験と知識でもって「ドウエル教授の首」でロシア初のSF作家としてデビュー。ロシア(ソ連)のジュール・ヴェルヌ(1828-1905 SFの父と呼ばれる作家)とも呼ばれ、60以上の作品を発表(エッセイなどを含めるともっと多いらしい。)し、またヴェルヌを含めた海外SFをロシア語に翻訳して紹介したようだ。
 当人かなりのヴェルヌファンだったらしく、両棲人間のタコや潜水艦のシーンは、ベリャーエフが趣味で入れたんじゃないかと思えるほど。
 またロケットの祖と呼ばれるコンスタンチン・ツィオルコフスキー(1857-1935)にも大きな影響を受けたらしい。(彼はロケットの未来図を小説に描き出し、やはりソ連のSFの祖とも呼ばれている。ちなみにツィオルコフスキーの方が早いのだけれど、彼の方はロケットの祖としての方が有名らしい。)
 ソ連以外のSF作家とも交流があり、同時代のHGウエルズと会ったこともあるようだ。
 作品からは宗教に対しては否定的な印象が読み取れるが、ソ連的というより生まれに関係があるように思う。
 ソ連時代から読者には人気はあり、現在でもロシアでは名前を知られたポピュラーな作家の一人であるようだが、存命中~ソ連で著作権が残っている期間には、国に認められてはいない=本が再販されるような作家ではなく、おまけに革命やら戦争やらと社会も安定せず、生涯経済面と健康面で苦労したが、当人はあまりくよくよしなかったらしい。
 早川書房の世界SF全集8ベリャーエフの解説によると、彼は生活のため年二冊の長編を書かなければならなかったとある。(年二冊で家族を支えられたら、個人的にはうらやましいんですが……。)
 その最後の地となったプーシキンはドイツに占領されたが、ベリャーエフは健康問題によりまた寝たきりになっていて(でも原稿は書いていた)疎開もできず、また彼の死後、ドイツは彼の家に遺産(原稿)を漁りに来たが、それらは事前に隣家の屋根裏に隠されていたらしい。
 これについてはなんかロシアでは、ベリャーエフの死に関する疑惑、なんていうのまであるらしい。

1884年 3月16日 ロシア西部スモレンスク市にて、司祭の息子として生れる。
1901年 神学校卒業。学費稼ぎに俳優を始める。
1906年 デミドフ法律学校卒業。司法書士?になる。
1911年 法律関係の仕事で一山当てて大儲け。
1913年 イタリア~フランス旅行で、財産を使い果たして帰国。
1914年 第一次世界大戦勃発。司法書士?をやめ、スモレンスク交響楽団入り。オペラの演出などもする。児童雑誌の編集部入り。子供向けの劇「モイラばあさん」発表。
1915年 突如、脊椎カリエスで寝たきりに。原因は屋根から飛び降りたためだとも、いやそれは作り話だとも言われている。
父親、母親をつけて息子をクリミア半島のヤルタに療養にやる。当人寝たきりのまま、数ヶ国語(英独仏)の外国語を身につけつつ科学やSFの本を読み漁る。
1919年 母没。
1920年 クリミアにソビエト政権が確立。
1921年 後の妻マルガリータ・コンスタンチノウナ・マグヌシュフスカヤと出会う。脊椎カリエスから回復。探偵をしたり、幼稚園で働いたりする。
1923年 妻と共にモスクワへ。郵政省に勤めながら、最初の本「外国の郵便事情」という本を出す。
?年 教育人民委員会の法律顧問となる。
1925年 ドウェル教授の首を、創刊されたばかりの『Всемирный Следопыт(世界開拓者)』に発表。
以降生涯に60あまりの長・短編作品を創作、および他国のSFをロシア語に翻訳する。
1926年 法律顧問をやめ、専業作家となる。
1927年 両棲人間を執筆、翌年、Вокруг света 『世界めぐり』創刊号に発表。『世界開拓者』と『世界めぐり』を中心に別ペンネーム「A・ロム」も使って書きまくる。
1939年 最後の長編となるアリエール(未訳)を執筆。
1940年 肝臓の手術。医者に頼んで手術の様子を鏡に映して見せてもらう。
1941年 戦争。そのころ住んでいたプーシキン町がドイツに占領される。
1942年 ドイツ軍に占領されたままのプーシキン市において1月6日 ベリャーエフ没。