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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2005.1.15
2020.06.05
2023.10 最終更新日

第二十六章 にわか親父

 潜水艇での旅が失敗に終わった後、バルタザールはひどく落ち込んだ。イフチアンドルは見つからないし、ズリタとグッチエーレも姿を消したからだ。
「コン畜生の白人め!」バルタザールは一人で店の椅子に座ってブツブツとつぶやいた。「ヤツらは俺たちから土地を奪って奴隷にしやがった。その上俺の息子を切り刻み、俺の娘をかっさらった。ヤツらは俺たちを滅ぼそうとしてやがる」
「バルタザール!」
 バルタザールは、クリストの声に顔を上げた。
「ニュースだ! でかいニュースだ! イフチアンドルが見つかったぞ!」
「なんだと?」バルタザールは、パッと立ち上がった。「早く話せ!」
「話そうとしてるんだから邪魔するな。話す事を忘れちまうだろうが。イフチアンドルが帰ってきた。わしが言った通り、あいつはあの時沈没船にいたんだ。わしたちが帰ってから外に泳ぎ出てきて、そして家に帰って来たんだ」
「で、どこにいるんだ? サルバトールのところか?」
「そうだ。サルバトールのところだ」
「俺はサルバトールのところに、俺の息子を返せと言いに行く……」
「返すもんか!」と、クリストは反対した。「博士はイフチアンドルが海に出ることを禁止した。だが、いつかワシがあいつを、海に放してやる……」
「返してもらう! もしサルバトールがあの子をあきらめないなら、俺はサルバトールを殺してやる! 今すぐ行くんだ」
 クリストは、バルタザールの勢いを恐れて手を振り回した。
「せめて明日まで待て。わしは孫娘に会いたいと言って、なんとかサルバトールのところから抜け出してきたんだ。もうサルバトールは、わしを怪しんでいる。ヤツはの目は、鋭いナイフみたいに物事を見透かすんだ。とにかくわしが何とかするから、せめて明日まで待つんだ」
「いいだろう。サルバトールの所へ行くのは、明日にしよう。俺は今から入り江に行く。もしかすると遠くからでも、海にいる俺の息子を見ることができるかもしれんからな……」
 バルタザールは、言葉通り入り江に向かうと、崖の岩の上に座り込み、夜通し波間をじっと見ていた。海は荒れていた。冷たい南風がスコールとなってやってきて、波を裂いて飛沫を巻き上げた。突風が沿岸の崖の上にそれを打ちつけ、磯波が海岸で砕け散る。
 空を流れる雲に月が見え隠れし、時折波を明るく照らした。
 バルタザールがどんなに頑張っても、泡立つ海には何も見えなかった。
 やがて夜明けが訪れたが、バルタザールはまだ海岸の崖の上に座り込んでいた。真っ暗な海が灰色になってくる。けれど人っ子一人現れない。
 突然バルタザールが、顔を上げた。鋭い眼差しが波に揺れる影を見つけた。人だ! おそらく誰か溺れているのだ! いや、溺れているのではない。男は頭の後ろに手を組んで、ゆっくりと振り返った。あの子だろうか?
 バルタザールは確信し、立ち上がり、胸を押さえ、そして叫んだ。
「イフチアンドル! 俺の息子!」
 バルタザールは手を高く上げて崖から海に飛び込み、深く潜った。しかし海面に出てみると、誰も泳いでいる気配はない。必死で波と戦いながら、バルタザールはもう一度潜ったが、巨大な波が彼を捕まえ、ひっくりかえし、海岸に打ち上げて転がし、唸りを残して引いていった。
 バルタザールはずぶぬれのまま波を見つめ、大きなため息をついた。
(俺は夢を見たのか?)
 風と太陽がバルタザールの服を乾かすと、彼はサルバトールの屋敷を取り囲む壁の所へ行き、鉄の扉を叩いた。
「誰だ?」
 黒人がのぞき穴から彼を見る。
「先生に大事な用がある」
「先生は誰も診ない」
 黒人はそう答えて、のぞき穴を閉じてしまった。
 バルタザールはノックし、叫び続けたが、扉を開ける者は誰もなく、ただ犬が吠える声が、壁の向こうから聞こえるだけだった。
「まってろよ、スペイン人のクソったれめ!……」
 バルタザールは悪態をついて町に戻った。
 裁判所の近くに、パームという酒場がある。分厚い石の壁の、ずんぐりした古い白い建物だ。入り口のところに張り出した小さなベランダには縞の日よけがかかり、テーブルと、紺色のエナメルの鉢に植えられたサボテンで、いっぱいだ。
 ベランダは晩になれば盛況だが、今はまだ、天井の低い涼しい室内の方が人気がある。
 この酒場は、裁判所の支部のようになっていた。
 裁判中の原告・証人・目撃者・まだ身柄を拘束されていない被告が、裁判の空き時間にやってきては、ここでワインとプルケを飲みながら、順番がくるまでの退屈な時間をつぶしている。ボーイがちょこまかと、裁判所とパームの間を行ったり来たりして、法廷で何が起こっているのかを、報告してくれる。質の悪い代理人や偽証者も、ここで見つけられる。それで便利なのだ。
 バルタザールも、店の仕事で何度かパームを訪れていた。だから、ここなら訴えの書類を作るのに必要な人物に会えることを知っていた。だからこそバルタザールは、ここへ来たのだ。
 彼はさっさとベランダを横切り、涼しい室内に入って冷たい空気を吸って一息つくと、額の汗をふきながら近くにやってきたボーイに尋ねた。
「ラーラは来てるか?」
「ドン・フロレス・デ・ラーラさんでしたら、いつもの席にいらっしゃいます」
 ドン・フロレス・デ・ラーラという偉そうな名前で呼ばれる人物は、以前は下級の裁判所書記官だった。だが、賄賂を取ったことがバレて首になった。今では厄介で複雑な問題を抱え込んだ大勢の顧客が頼ってくる偉大な詐欺師となった。バルタザールも、彼と取引をしたことがある。
 ラーラは、ゴシック様式の大きな窓際のテーブルに陣取っていた。テーブルの上にには、丸いワインのグラスと赤いずんぐりしたブリーフケースを置き、オリーブ色の粗末な背広のポケットには、いつでも仕事が始められるよう万年筆が差してある。
 ラーラは太っていて、ハゲていて、頬が赤く、鼻も赤く、髭を剃っていて、そしてふんぞりかえっていた。窓から吹き込むそよ風が、たしない白髪を逆立てている。裁判長であっても、これほど尊大な態度で依頼人を迎えることはないだろう。
 彼はバルタザールを見て、投げやりにうなずき、藤の編み椅子に座るように薦めてから、こう言った。
「座りたまえ。何にするかね? ワイン? プルケ?」
 彼は薦めたが、ここで注文したものは、依頼人が金を払うのが通例となっている。
 しかしバルタザールの耳には入っていない。
「大問題だ。とても大切なことだ、ラーラ」
「ドン・フロレス・デ・ラーラです」と、彼は訂正し、丸いグラスから一口飲んだ。けれどバルタザールは、訂正など聞いていない。
「あなたの問題はいったい何だね?」
「いいか、ラーラ……」
「私の名は、ドン・フロレス・デ……」
「そんなわかりきった話をしに来たんじゃない!」と、バルタザールは怒り出した。「問題は深刻なんだ」
「だったらさっさと話しやがれ」と、ラーラは調子をがらりと変えた。
「あんたは海の悪魔を知っているか?」
「個人的にお目にかかったことはないが、噂はよく耳にしますな」と、ラーラは再び調子を戻した。
「そうだ! その海の悪魔は、俺の息子のイフチアンドルなんだ!」
「そんなバカな話があるか!」と、ラーラは叫んだ。「バルタザール、飲みすぎだぞ」
 バルタザールは、テーブルを拳で叩いた。
「昨日から海の水以外、何も飲んじゃいやしない!」
「そりゃもっと悪い……」
「俺の頭がおかしいとでも思ってるのか? そうじゃない。まともだよ。まずは黙って聞いてくれ」
 そしてバルタザールは、これまでのことをラーラに全て話した。
 ラーラは口出しせずに、彼の話を聞くにつれ、その灰色の眉を上げていった。話が終わると、彼は偉そうに気取ることも忘れて、テーブルをデブデブしたその手で叩きながら大声で言った。
「百万の悪魔だ!」
 汚れたナプキンを持った白いエプロンのボーイが、やってきた。
「何にいたしましょうか?」
「ソーテルヌ(白ワイン)を二瓶と氷だ!」ラーラは、バルタザールに向きを変える。「そりゃすごい! 素晴らしい儲け話だ! 本当にお前が全部考えたのか? しかしながら率直に言うと、お前が父親だっていう根拠が弱いな」
「疑うのか!」と、バルタザールは真っ赤になって怒った。
「まあ、まあ怒るな爺さん。私は法律家として司法的根拠が弱いことを言ってるんだ。しかし、それはなんとかなるさ。そうさ、大金が手に入るぞ」
「俺が手に入れたいのは息子であって、金じゃない」と、バルタザールは反対した。
「誰にだって金が必要だ。特にお前さんのように家族が増えるとなればな」と、ラーラは、おためごかしを言い、ずるそうに目を細めて先を続けた。「サルバトールの仕事の中で、最も価値があり、最も信頼できるのは、彼がどのような種類の実験や計画に関与していたのかを、突き止めることができたことだ。ゆさぶれば、サルバトールの財布から、嵐の中の熟れすぎたオレンジみたいに金が降ってくるぞ」
 バルタザールは、ラーラがそそいだワインに、かろうじて触れて言った。
「俺は息子を取り戻したい。その訴訟のための書類が必要なんだ」
「だめだ、だめだ! いきなり訴えてどうする!」と、ラーラは怯えたように反対した。「そんなことをしたら、全部台無しになってしまう。それはやることをやった、最後の最後だ」
「じゃあ、どうしろというんだ?」と、バルタザールはたずねた。
「まず最初に」と、ラーラは太い指を折り曲げた。「我々はサルバトールに、おもいきり丁重な手紙を送りつけるんだ。我々は、あなたの違法行為を全て知っているとね。彼がそれを公にして欲しくなければ、我々に十万支払うように。そう最低十万だ」ラーラがいぶかしげにバルタザールを見ると、彼は眉をひそめて黙っていた。
「第二に」と、ラーラは続けた。「我々がその金を受け取ったら、サルバトールに、さらに丁重な二通目の手紙を送るんだ。我々は噂されているイフチアンドルの本当の父親を突き止めた。そして我々は、その明白な証拠を持っている。そしてその父親は、たとえ裁判でイフチアンドルがサルバトールに改造されたことが公になろうとも、彼を取り戻すことを望んでいる。けれどももしサルバトールが和解を望み、子どもを手元に置きたいと望むなら、その時は我々に百万ドル支払わねばならないだろう」
 しかしバルタザールは、もはや話など聞いていなかった。彼は瓶を握り、ラーラの頭上に振り上げた。ラーラは、これほどまで怒り狂ったバルタザールを、初めて見た。
「まってくれ、本気じゃない、冗談だ。瓶を下ろせ!」
 ハゲた頭を手でかばいながら、ラーラは叫んだ。
「お前は! お前はっ!」バルタザールは、かんかんに怒りながら叫んだ。「お前は、実の息子を売れ、イフチアンドルをあきらめろってのか。お前には心ってもんがないのか? お前はサソリかタランチュラで、父親の気持ちってのをわかってないのか!」
 ラーラも怒って叫び返した。
「五人だ! 五人! 五人だぞ! 私には五つの父親魂がある! 私には五人の息子がいる! 大小五匹の餓鬼どもだ! 食わせるべき五つの口だ! 私に父親の気持ちがわからないだと! 短気を起こさず辛抱強く最後まで聞いたらどうだ」
 バルタザールは怒りを納め、テーブルに瓶を置いて、ラーラを見下ろした。
「ならば話せ!」
「よろしい! サルバトールは我々に百万払うだろう。それであなたはイフチアンドルに必要なものを買ってやりなさい。そして揉め事を解決する方法を考えた私への謝礼も何百か何千支払っていただく。我々はあなたと一致協力し、私の頭に賭けてサルバトールに百万支払わせようではないか! そして彼が金を出したらすぐに……」
「俺たちはすぐに法廷に訴えるんだな」
「もう少し辛抱して黙っていなさい。それから我々は出版社や編集者に、彼の悪事を特種として持ち込むのだ。我々が持っているこのセンセーショナルな犯罪の情報に、編集者は二万か三万の小金は出すだろう。警察にも密告して、裏金から裏報奨をいただくんだ。この事件は警官にとって出世級だからな。我々がサルバトールの事で搾り取れるだけ搾り取ったら、そのときに裁判所に、あなたの父性を訴え出なさい。そしてそう、女神テミスにあなたの素晴らしい息子が、父親の腕の中に返ってくるよう祈るのです」
 ラーラはワインを一気に飲み干して、そのグラスをテーブルに打ち付けるようにして置き、そして勝ち誇った様子でバルタザールを見た。
「お前はそう言うのか? 俺が食べる物も喉を通らず、夜も眠れないというのに、お前は問題を、果てしなく引き伸ばそうというのか」と、バルタザールは再び怒り始めた。
「そうだ。何が悪い?」ラーラは、激しくそれに言い返した。「何のためにだって? 百万だぞ? 百万だ! あなたはこの意味がわかってるのか? あなたはイフチアンドルなしで、二十年は暮らしてきたじゃないか」
「そうだ暮らしてきた。しかし今は……。さっさと告訴状を書いてくれ」
「本当に、考え直す気はないのか!」ラーラは叫んだ。「現実的になれ! 正気になって目を覚ませ、バルタザール! わかってるのか! 百万だ! 銭だ! 金だ! それだけの金があればなんだって買える。上等なタバコ・自動車・帆船が二十隻・酒場だって……」
「裁判所に出す告訴状を書け。でなきゃ俺は、別のヤツに頼むことにする」と、バルタザールは断固として言った。
 ラーラは、これ以上反対しても無駄だとあきらめ、頭を振ってため息をつき、赤いブリーフケースから紙を、胸ポケットの万年筆をしぶしぶ取り出して書きつけた。
 数分で、サルバトールがバルタザールの息子を非合法に手元に置き、そして傷つけたことを訴える裁判所への告訴状が書き上げられた。
「最後に聞くが、考えを改める気はないか」と、ラーラは言った。
「よこせ」と、バルタザールは告訴状に手を伸ばした。
「主任検察官にそれを渡すんだ。わかってるな?」ラーラは依頼人に注意した。そしてつぶやいた。「階段でけつまづいて、足を折っちまえ!」
 バルタザールが裁判所を出たとき、大きな白い階段でズリタに出会った。
「なぜここにいる?」と、ズリタは疑いの目で彼を睨みつける。「俺を訴えに来たのか!」
「貴様ら全員を訴えなきゃならんさ」と、バルタザールはただ一人ではなく、スペイン人全部を念頭に置いてそう答えた。「貴様、俺の娘を、どこにやった?」
「よくも『貴様』と呼べるもんだ!」と、ズリタは顔を真っ赤に染めた。「もしお前が妻の父親でなければ、棒でお前をおもいっきりぶちのめしてやるところだ」
 ズリタはバルタザールを乱暴に押しのけると、階段を登り、大きな樫の扉の向こうに姿を消した。

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