(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2005.1.15 最終更新日

31 逃亡

 オルセンがボタン工場から帰宅し、夕食に取り掛かったちょうどその時、誰かが扉をノックした。
「誰?」邪魔されたオルセンは、不満そうな大声を上げる。
 扉を開けて入ってきたのは、グッチエーレだ。
「グッチエーレ! 君だったのか! どこから来たんだい?」
 喜んだオルセンは、驚いて叫び、椅子から立ち上がった。
「オルセン、ごきげんいかが。夕食を続けてちょうだい」そしてグッチエーレは扉により掛かる。「私もう、夫や姑と一緒に暮らすことなんてできないわ。ズリタが……、私を本気で殴ったの……。だから出てきたの。オルセン、私もう戻らないつもりよ」
 これを聞いて、オルセンは手を止めた。
「信じられないな! 座って! そこに立ちっぱなしってのも何だから。でもどうしたんだい? 君は『神が結びつけた相手と別れることはできない』と言ってたじゃないか? その話はどうなったんだい? でもその方がいい。私も嬉しいよ。君はお父さんの所に帰ったのかい?」
「お父さんは、何も知らないわ。お父さんのところに行ったりしたらズリタに見つかって、連れ戻されてしまうもの。友だちのところにいるの」
「これからどうするんだい?」
「私、工場に勤めたくて、オルセン、あなたのところに来たの……。何か仕事はないかしら」
 オルセンは申し訳なさげに頭を横に振った。
「今はとても難しいね。でももちろん聞いてみるよ」そしてオルセンは、少し考えてこう聞いた。「君の旦那さんは、それをどう思うかな?」
「私の知ったことじゃないわ」
「けれど旦那さんは、妻のことを知りたいと思うだろうね」と、オルセンは微笑んだ。「君はアルゼンチンにいるってことを、忘れちゃいけないな。ズリタは君を見つけ出すよ。そしてそれから……。彼が君をほっておかないことは、君も知っての通りだ。法律も世論も、彼の味方をする」
 グッチエーレは考えた。そして彼女は決心して言った。
「なら! そんな時は、私はカナダかアラスカへ行くわ……」
「北極へ、グリーンランドへ!」オルセンは大真面目だった。「私たちはそのことを本気で考えるべきだと思う。ここにいたら、君は危険だ。私は前から、ここを離れようと思っていた。ここは、あまりにも司祭の力が強すぎる。だからあの時脱出に失敗したのは残念だった。ズリタが君を誘拐して、私たちの切符が、渡航費用が無駄になってしまった。
 今君は、おそらくヨーロッパに向かう汽船のチケットを買うお金を持ってないはずだ。けれど私たちは、真っ直ぐヨーロッパに行かなければならないわけじゃない。
 なぜ私が、まだ南米に残ったのかって? なぜなら私は、君を危険な場所に置いて行くつもりはないからだ。もし私たちが、私たちだよ。私たちが、もし隣国のパラグアイか、できればブラジルに行けば、ズリタが君を見つけることは、とても難しくなるだろう。その間に私たちは、ヨーロッパのどこかの国に渡る準備をすることができる。
 君は、サルバトール博士と一緒に、イフチアンドルが拘留されたのを、知っているかい?」
「イフチアンドルが? 彼が見つかったの? どうして拘留されたの? 彼に会うことができるの?」
 グッチエーレはオルセンを質問責めにした。
「そう、イフチアンドルは拘置所にいる。そしてズリタは再び彼を奴隷にしようとしている。サルバトールとイフチアンドルは、ばかばかしい訴訟を、ばかばかしくも不利な告訴をされたのさ」
「ひどいわ! 助けてあげられないの?」
「手はつくした。けれどうまくいかなかったんだ。だけど拘置所の所長が、意外にも私たちの味方だったのがわかったんだ。今夜のうちに私たちは、イフチアンドルを自由にしなければならない。私はさっき、短い二通の手紙を受け取った。サルバトール博士と、拘置所の所長からだ」
「私、イフチアンドルに会いたい! 一緒に行ってもいいでしょ?」
 オルセンは考え込んだ。
「私は行かないほうがいいと思う。
 君は……、イフチアンドルと会わない方がいい」
「でも、なぜ?」
「なぜならイフチアンドルは病んでいるからだ。それは人間としての病気で、けれど魚としては健康なんだ」
「わからないわ」
「イフチアンドルは、もう空気を呼吸することができないんだ。それでもし彼が君に会ったら、何が起こると思う? 彼はきっと、間違いなく、何がなんでも陸にいたがるだろうね。たぶん、君のために。イフチアンドルは、君と一緒にいたがるはずだ。そして空気中の生活は、最終的には彼の命を奪ってしまう」
 グッチエーレは、うなだれた。
「そうね。たぶん、あなたが正しいんだわ……」と、彼女は考え込んでから言った。
「彼と、そして全ての他の人々との間には、『海』という越えられない壁がある。それがイフチアンドルに与えられた運命なんだ」
「でも、でも彼はたった一人で、果てしない海で、魚たちの中の人として、海の怪物として生きていくの?」
「彼は、平和な水中で幸せだった。これまでは……」
 グッチエーレは赤くなった。
「今はもちろん、以前ほど幸せではないと思う……」
「やめて、オルセン」グッチエーレは、顔を曇らせた。
「いずれ時間が、全てを癒してくれる。彼は失った残りの幸せを見つけるだろう。彼は生きて行くだろう。魚と、海の怪物たちと一緒に。そして、サメに食べられたりしなければ、白髪の老人になるまで生き続けると思うよ……。けれど死は? 死はどこにいても訪れる」
 薄闇が濃くなり、部屋も暗くなった。
「そろそろ時間だ」と、オルセンが立ち上がると、グッチエーレも立ち上がった。
「けれど、遠くから彼を見るだけならいいでしょ?」
「そうだね。もし、君が姿を隠しているなら」
「ええ、約束するわ」
 オルセンが、水運び人夫の服を着て、樽を積んだ馬車を操り、コロネル・ディアス通り通用門から法廷内拘置所へと入っていったときには、あたりはすっかり暗くなっていた。
「拘置所に何の用だ」と、警備員が彼を呼び止める。「どこへ行く?」
「悪魔に海水を運んできたんです」と、オルセンは拘置所所長に教えられた通りに答えた。
 警備員たちはみな、拘置所に「海の悪魔」と呼ばれる、海水の入った水槽に入っている奇妙な囚人がいて、その海水を新しいものに取り替えなければならないことを、知っていた。これまでも時折、馬車に乗せた大きな樽で海水が持ち込まれ、交換されている。
 オルセンは、敷地内の拘置所へと馬車を進めた。そして角を曲がって警備員からは死角にある調理室の、拘置所内と続く従業員用出入り口に向かった。
 所長は、既に全て手配していた。いつもなら通路や入り口に立っている夜警を、さまざまな口実で余所にやり、そしてイフチアンドルを伴って、拘置所を抜け出して来たのだ。
「さぁ! 急いで樽の中に飛び込むんだ!」と、所長が言うと、イフチアンドルはすぐさまそうした。
「行けッ!」
 オルセンは手綱で馬を叩き、裁判所を出る。そして焦らずにアルベアル通りに沿って進み、レティーロ駅を過ぎて、貨物駅へと向かった。
 離れてその後を追う女の影が、ゆらめいていた。
 オルセンが町を出た時には、あたりは闇に閉ざされていた。
 道が海岸に出た。風が強くなる。
 波が海岸に押し寄せ、そして岩で砕けて轟きを上げる。
 オルセンはあたりを見回した。しかしそうするまでもなく、道には誰もいないことが、はっきりしていた。
 ただ向こうの方で、自動車のライトの輝きが、素早く動いているだけだ。
「通り過ぎるのを待とう」
 警笛と、目がくらむような光を残し、町に急ぐ自動車は過ぎ去り、そして遠ざかって見えなくなった。
「今だ!」
 オルセンは最後の合図をした、そしてグッチエーレに、岩影にかくれるようにと手を振った。そして樽を叩いて叫んだ。「着いた! 出ていいぞ!」
 頭が樽から出てきた。
 イフチアンドルは、あたりを警戒していたが、素早く地面に飛び出した。
「ありがとう、オルセン!」青年は、濡れた手で、大男の手を握って、そう言った。イフチアンドルは、まるで喘息の発作を起こしているかのように、ぜいぜいと呼吸していた。
「礼はいいから、さようならだ! 注意しろ。あまり海岸近くを泳ぐんじゃないぞ。また捕まって閉じ込められないように、人に注意するんだ」
 オルセンは、イフチアンドルが博士からどう言われているかまでは、知らなかった。
「えぇ、そうします」イフチアンドルは、息を詰まらせた。「僕は、船が一隻も訪れないような静かな珊瑚礁で、ずっとずっと浮かんでいるつもりです。ありがとうオルセン!」そして若者は、海に向かって走って行った。そして彼は突然波間で立ち止まり叫んだ。「オルセン、オルセン! もしあなたがグッチエーレに出会うことがあったら、僕がよろしく言っていたと、伝えてください!」そして青年は、海に飛び込みながら、大声で言った。「グッチエーレに、許して欲しいと!」
 そして彼は、海の中に姿を消した。
「イフチアンドル! さようなら……」
 岩影に立つグッチエーレが、そっと応えた。
 風が強くなり、立っていられなくなってきた。海は荒れ狂い、砂が叩きつけられ、跳ね飛ばされた石が足を打つ。
 グッチエーレの手を、誰かの手が取った。
「行こう。グッチエーレ!」
 オルセンが、心を込めて言った。彼はグッチエーレを連れて、道に向かった。
 グッチエーレは、海を振り返った。そして、オルセンの腕によりかかると、二人は街に向かった。

 ***

 サルバトール博士は、刑期を勤め上げると家に帰り、再び自然に抵抗する研究に没頭した。彼はどこか遠い所へ旅行するための準備ををしている。
 クリストは、彼の元で働き続けている。
 ズリタは新しい帆船を手に入れ、カリフォルニア湾で、真珠を採っている。彼はアメリカの大金持ちにはなれなかったが、その運命に文句を言う筋もなく、気圧計のようなその髭は、高気圧を示している。
 グッチエーレは正式にズリタと離婚して、オルセンと結婚した。そして二人はニューヨークの缶詰工場で働いている。
 ラプラタ湾の沿岸では、海の悪魔の話は、忘れられた。
 ただ時々、息がつまりそうな静かな夜に、年老いた漁師が聞き慣れぬ物音耳にすると、若者たちにこう話す。
「海の悪魔は、こんなふうに貝を吹いたものだ」
 そして彼は、その伝説を話し始める。
 たった一人、ブエノスアイレスに、イフチアンドルのことを忘れない者がいる。
 町のワルガキどもは、この貧しいインディオの老人を知っていて、からかって遊ぶ。
「海の悪魔のオヤジが行くぞ!」
 けれど老人の目には、子どもたちなど入っていないようだ。ただスペイン人と行き会うと振り返り、その後姿に向かってツバを吐き、呪いの言葉をぶつぶつとつぶやく。
 けれども警察は、このバルタザール老人を、かまいはしない。おかしくはなっていても大人しく、誰に迷惑をかけるわけでもないからだ。
 ただ海に嵐が近づくと、老人は、ひどい不安にさいなまされる。そして海岸に急ぎ、波に浚われる危険も構わず、沿岸から石のように動こうとしなくなる。
 そして彼は昼も夜も、嵐が終わるまで、叫び続ける。
「イフチアンドル! イフチアンドル! 俺の息子! ……」
 けれど海は、秘密を隠し続けている。

(以上)

あとがき