ライドウの上京

 

 鳴海探偵事務所は、筑土町の銀楼閣という、今風のビルヂングの一角にある。
 帝都で唯一の『普通の事件お断り』な、探偵事務所だ。
 鳴海がどうして、普通でない事件専門の探偵事務所を開いたのかについては、それなりのドラマが伴うのだが、今は別の話とさておいておく。
 ただ、普通でないコネも築き上げ、普通でない事件も事実それなりに手がけ、実績もあげていて、家賃をそこそこ遅れず支払い、電話も引いておける程度には、この商売を成り立たせている。
 おおむね、普通の事件を断れる程度には。

 つまり、普通の人には普通でない事件などなく、探偵事務所にはいろんな事件が持ち込まれてくる、ということだ。
 たとえば普通の浮気や、それに絡む修羅場なんかも、当事者にとっては普通とは言い難い。
 鳴海は多くは語らないが、とりあえず男女がらみの修羅場とは段違いの、とてつもない修羅場をくぐり抜けてきたのは確かであるらしい。
 度胸も実力もあるから、そんな普通の仕事をした方が、ずっと儲かりそうなものだけれど、鳴海は普通でない事件専門という看板を、下ろそうとはしなかった。
 助手の一人も、家族もいない独り身だからこそ、仕事をえり好みできる、とも言えるだろう。
 今日もそんな、鳴海探偵事務所の電話が鳴れば、鳴海自身がその電話を取ることになる。

「え? うちで書生を? ネコ一匹つきで?」
 電話は、鳴海の普通ではないコネの一つからの、依頼だった。
 だがその依頼は実に普通。というか、事件ですらない。
 鳴海は少しがっかりするが、この相手は無下にするには、大物過ぎた。
「とはいえ俺は独り者だし、住んでいる所も手狭だし、書生を置けるほど裕福じゃないんですがねえ」
 この時代、地方から上京して進学する者たちは、よほど実家が金持ちでもなければ、帝都の親類などの家で暮らすのが、普通だった。
 下宿する者や学校の寮に入る者もいたが、急激な帝都への人口集中が、極度の住宅不足と、住宅費の高騰を引き起こしていたからだ。
 いや、実家が金持ちならそれはそれで、子息に危ない一人暮らしなどさせず、目の届く帝都の親類の家に預けるという事になるのだが。
 ともかく、時代の流れの進学ブームと、その競争率の高さと、ついでにその後の将来性の高さも手伝って、田舎の親類の子が帝都の学校に受かったとなれば、帝都の親類だって無理をしてでも、置いてやろうと考える。
 そのかわり、置いてもらった学生は、その家の雑用を引き受ける。
 書生とは、だいたいそんなものだ。
 帝都に親類がいなければ、つてをたどって知人に頼むということもあるが、ネコの子じゃあるまいし、探偵事務所が預かるようなものではない。
 いや金を貰ったって、ネコの子だってお断り。
『これは仕事の依頼です』
「仕事として?」
『ええ、普通の事件を扱わない探偵である、あなたに依頼するのです』
 そこで鳴海は、興味を持った。
 相手から、書生とネコを預かり代として提示された金額は、この物価高のおりの帝都でも、普通に下宿し、普通に生活していけるほどの額を、一回り上回る。
 その点からいっても、確かに普通の話ではない。
 なにしろこれだけの金が貰えるとなれば、家の一番いい部屋を明け渡し、上げ膳据え膳雑用なしで、喜んで引き受けるヤツが、いくらでもいるという額なのだ。
「つまり、普通の書生ではない、ということですか?」
 電話の向こうで、女がクスリと笑う。
『ネコもです。かならずや、この依頼はあなたを満足させるでしょう』
「普通の所じゃ手に負えないような、よほどの変わり者ってことですか?」
『そうした意味では普通ですよ。
 普通の書生と思い、普通ではないあなたの探偵事務所の助手として、普通に使ってやってください。
 新しく帝都を担当することになった、葛葉のデビルサマナー。ライドウです』
 電話を手にしたまま、鳴海はしばし言葉を忘れた。
 デビルサマナー?
 葛葉のライドウ?
 帝都を担当する?
 もちろん、知らぬわけではない。
 普通でない数々の事件に首を突っ込んで、それなりの実績を上げていたら、デビルサマナーの存在や、葛葉の名を知らぬままではいられない。
 だが鳴海は、そうした存在はもっとこうすさまじく、自分には手の届かないものだと思っていた。

 この世界には、悪魔と呼ばれる存在が、ひしめいている。
 鳴海が片足を突っ込んだ、普通ではない業界では、全てひっくるめて悪魔と呼んではいるが、日本においては八百万の神々から妖怪オバケ魑魅魍魎類までを含む。
 普通の人の目には、その悪魔がうつることはない。
 そして残念ながら、鳴海の目にも。
 だから鳴海は、どんなに頑張っても、この業界に片足しか突っ込めない。
 いや、見えない普通の人間の場合、片足を突っ込むだけでも、よくぞそこまで頑張ったと言える。
 先天的に悪魔を見たり、声を聞いたりすることが出来る者は少なくないらしい。
 むしろ幼いうちは、オバケを見たり、その声を聞いたりするものだ。
 長じても、そんな経験の一度や二度は、しているものだ。
 常に悪魔の存在を認識し、会話出来る者となれば、限られる。
 悪魔に取り憑かれず、自我を維持し、指図までできる者となれば、ごく少数。
 それが、デビルサマナーだ。
 この科学万能時代の幕開けにおいて、知識人たちは科学で証明できない悪魔の類を、迷信として退けている。
 それに反発するかのように、むしろ民間では、怪しい事件が頻発している。
 だからこそ鳴海の探偵事務所にも、様々な事件が飛び込んでくる。
 ほとんどの場合、鳴海は事件が、超常現象や悪魔とは無縁であることを証明してしまう。
 だがそれでも、鳴海は知っていた。
 悪魔の存在の否定は、表向きの話にすぎない。
 国でさえ秘密裏に、国を護るために悪魔と取引し、国の護り手としてサマナーを育成している。
 いや、考えてみれば秘密でもなんでもない。
 神と呼ばれる存在もまた、この業界では力ある悪魔に過ぎないのだから。
 この国のどこにいったって、神は祭られている。
 もとより八百万の神の国な所に、居心地がいいのか世界中から同類が集まっている。
 秘密なのは、軍にも軍専属のサマナーがいるだとか、その力を具体的に活用している、ということだ。
 秘密とは、つまり軍事機密といった意味合いが濃い。
 軍とは別に、国の命を受け、日本の各地を護る任を受けたサマナーがいる。
 こちらは帝国軍よりなお歴史ある存在で、しかも葛葉といったら名門で、さらにライドウの名を継ぐとなれば、ただ者ではないはずで。
 だが、それが書生で、しかも自分が預かるというのが、鳴海にはピンとこなかった。
 なにせ、ここは帝都だ。
 この日本の要だ。
 その護り手が、書生としてうちに来る? ネコを連れて?
 俺、そこまで大した探偵だっけ?
「あー、つまりサマナーの見習いとか候補生ってとこですか。入学したのは、実はサマナーの学校で、そこで帝都を護るサマナーになる勉強をするとかなんとか」
 鳴海には、ありそうな話に思えた。
『いいえ、帝都に到着次第、その任にあたります』
「つまり書生ってのは仮の姿で…」
『正真正銘の書生です。学校は普通の師範学校で、当人の実力で試験に受かっています。
 年齢や名目上の地位は、関係ありません。サマナーは、悪魔を認知し使役する以外、それほど特別な存在ではありませんよ』
「そうですか」
 としか、言いようがなかった。
『そのサマナーを、あなたが普通の書生として、探偵事務所で使役することが、我々の望みです』
「おいおい、使役って…」
 サマナーが悪魔に対して使う言葉じゃなかったのか? と言いかけて、鳴海は小さくため息をつく。
 普通じゃないこの業界で、普通じゃない言い回しまで、細かく気にしてはいられない。
 お偉いさんが、人を道具のように考え、そう表現する傾向があることぐらい、知っている。
 言いたいことは、だいたいわかった。
「普通の書生と思って、うちの事務所の手伝いさせりゃいいわけですね。普通でない事件専門の探偵事務所で、普通でない書生を、普通に使う。正直イメージ、わかないんだけどなぁ」
『難しく考える必要はありません。彼は、自身がすべき仕事を、心得ています』
 こうして鳴海は、帝都を護る書生とネコ一匹を、預かることになったのだ。
 前から助手が欲しいな、とは考えていた。
 忙しいからとか、雑用を押しつけたいからというより、助手がいた方が様になると思っていたからだ。
 収入だって、助手を雇えないほどじゃない。
 ただ多少収入が不安定なのと、手元にあるだけ使ってしまう自分の性格と、それから普通じゃないの専門の探偵業の助手に相応しい手頃な人材と、巡り会えていなかった。
 なにせ鳴海は、見えないのだ。
 暗闇の中、手探りで事件の調査をしているといっていい。
 この状況で助手など雇えば、鳴海は手探りのまま、助手の安全まで確保しなければならなくなる。
 かといって見えるヤツは、どんな若造でもこの業界では鳴海よりも格が上と相場が決まっている。
 それが、いきなり葛葉だ。サマナーの中でも、偶然その能力を持って生まれたために、成り行きの見よう見まねでサマナーになりました、なんていうぽっと出ではない。
 世襲制の、名門中の名門といってもいい。
 たぶん…、と鳴海は自分に都合よく考えることにした。
 そのライドウは、学校へ通ったり、俺みたいな男の元で働いて、世間を学ぶのが修行の一環なんだろう。
 そして鳴海は、あたりを見回す。
 女中や下男や書生を置くのは、ある程度稼ぎがある者なら当然のことだから、ある程度大きな建物なら、最初からそのための小さな日当たりの悪い部屋の一つもあるものだ。
 が、この事務所兼住居は、一人暮らしでこそ余裕があるものの、それを想定していない。
 そのことも今まで、鳴海が助手を雇わなかった理由の一つだ。
 鳴海自身、メインは外食だが、そうでないときは事務所の扉に「CLOSED」(流行を取り入れ英語の看板を作ってみたが、読めない人が多いため、鳴海の手により「閉店」と併記してある)の札をかけ、事務所で食べている。
 けどまあ書生なんだから、日中の大半は学校に行ってるわけだし、とりあえず寝るところがあればいいよな?
 と、考えても考えなくても、今は物置のごとき有様になっている一室を、書生部屋にするしか、選択肢はなさそうだ。
 まてよ? 学生なんだから、文机の一つもあった方がいいのか?
 そういや布団は持ってくるのか? それともこっちで用意するのか?
 鳴海は、普通でない書生とネコの、普通のことを聞き忘れたことに、気がついた。
「ま、いっか」
 独りごちて、鳴海はライドウ用と決めた部屋に足を踏み入れた。
 それこそ書生なんだから、当人が来てから片付けを手伝わせればいい。
 だがその前に、何をどうどこへ片付けるかは、決めておかなきゃならないぞと、鳴海は首をひねる。
 あれをあっちにやって、これは捨て、それは置きっぱなしでいいだろう。いやいっそ新しい書棚を事務所に置いて……。

                 ***

 地方と帝都を結びつける鉄道網は、日々広がり続けている。
 普通でない書生と、そして悪魔もまた、列車の乗客となって、とある地方から帝都を目指していた。
 神出鬼没が基本の悪魔とはいえ、旅もするのだ。
 ああ、神出鬼没といえば、サマナーたちにとっては、神も鬼も悪魔であった。
 ともかく悪魔は、物理法則に縛られているのか、縛られていないのか、いや我々の日常を支配する別のものであれ、何らかの法則に縛られているのかいないのか、それは常人にはわからない。
 ただ、列車や鉄道や旅が好きな悪魔もいる。
 そしてサマナーは普通の人で、たとえ国家や帝都の任に赴くところであろうとも、普通に料金を払い、列車に乗って旅をする。
 もっともサマナーもベテランになると神出鬼没で、いわば悪魔たちとの境目が希薄になっていく、とも言われている。
 葛葉ライドウもまた、今日は一人の列車の旅客として、旅をしていた。
 身にまとうのは、師範学校の学生服。
 手荷物は一つ。中身は黒猫が一匹。
「書生さん、こっから先はトンネルが多いから、窓を閉めてくれないかい?」
 ちなみに電車があるのは帝都ぐらいで、地方はまだまだ蒸気機関車がメインである。
 声を掛けられるままに立ち上がり窓を閉めると、言葉通りまもなくトンネルだ。
 灯はあるが、とたんに列車内が暗くなる。
 しかも、どこかで、窓を閉め損ねたらしい。
 トンネルに入り逃げ場を失った蒸気機関車の煙が、列車の中に入り込んで来た。
 うわっだとか、窓を閉めろ! と、誰かが叫んでいる。
 煙といっても、煙草の煙のような生やさしいものではなく、あびれば煤だらけになる粉塵だ。
 ライドウは、手早く列車に乗り合わせた悪魔と取引をした。
 誰もライドウのことは、見ていない。
 乗客たちがその目で見たのは、薄暗い列車の中を、煙がまるで竜のように細く黒い形を保ったまま、後方へと流れ突き進んで行く様だ。
 さらに不思議なことに、それは閉まったままの窓ガラスを突き抜けるように、外へ出ていった。
 直後列車はトンネルを出て、車内は光に満たされる。
 すでに窓は閉まっているし、何も煤まみれになっていないし、もちろん竜のような煙だって、跡形もない。
「書生さん、今のを見たかい?」
 何をです? と、ライドウは、話しかけられて初めて気がついたかとでもいうように、その涼しげな顔を上げる。
「いやあ、つまりなんだ、煙が一筋、車内に入り込んだような気がしたんだがな。だが、きっと急に暗くなったから、影でも見間違えたんだろうなあ」
 話しかけてきた男は、首をひねりながらも、自分の言葉に納得したようだった。
 鞄の中から黒猫が、ライドウだけに聞こえる言葉で、話しかける。
『このような所でマグネタイトの無駄使いをするものではない』
 マグネタイトは、使役悪魔に支払う報酬だ。金とはまるで違うが、人間の社会にある物に喩えるなら、それが幾分近い。
 軍人には、銃弾に喩える者もいる。それも近いし、まったく違うとも言える。
 電気に喩える者もいる。これまた似たところもあるし、まったく違うものでもある。
 悪魔の腹を満たす生気にも似てもいる。が、これはこれで別物として存在するので、例えにならない。というか、全ての悪魔が人間の生気で腹を満たすわけでもない。
 とにかく悪魔に何かをさせたいなら、マグネタイトを払う必要がある。
 値引きもツケも効かない。
『そもそも用を命じるなら、封魔した自らの手の悪魔を使え。その方が、忠誠も得られよう』
「市井の悪魔との交渉の練習のつもりだ」
『確かに、葛葉の里には葛葉の息の掛かった悪魔が多い。だが、たとえサマナーとて、便利に悪魔を使うものではない。無用に悪魔と通ずれば…』
 若きサマナーの、ご意見番であり指導役でありお目付役でもある黒猫は、サマナーにのみ聞こえる言葉で、小言を続ける。
 この言葉は、サマナーや悪魔にしか聞こえないが、ライドウ以外のサマナーにも聞こえてしまう。
 聞かれたらまずいのか? と言えば、ケースバイケースとしか言いようがないが、まずい時はとことんまずい。
 サマナーには、ダークサマナーと呼ばれる質の悪い者もいて、サマナーと知られれば足を引っ張られかねないからだ。
 万一敵対するにしろ、こちらの手札は伏せて起きたい。
 だからサマナーにしか聞こえない言葉とはいえ、むやみやたらと話しかけてくるわけではない。すでにこの列車内には、聞かれたらまずそうな相手はいないと判断してのお小言だ。
 ちなみに普通の人には、ニャーニャーとしか聞こえない。
「おや書生さん。鞄の中はネコちゃんかい?」
 普通のおばちゃんが、その声に興味を持ったようだった。
 ええ、とライドウは老婆に微笑み、少しだけ鞄を開けて見せる。
「あらあら、真っ黒なネコだこと。名前はクロちゃんかしら?」
「ゴウトといいます」
「よくわからないけど、なんだかハイカラっぽい名前だねえ」
 実のところ、ゴウトはハイカラとは無縁な名前ではある。
 けれどおばちゃんにとっては、ハイカラの意味なんか知らないけれど、とにかく最近世に溢れつつある新しいもの、耳慣れないもの、西洋風なものは、すべてハイカラなのだ。
 たとえば帝都へ向かう学生服の書生さんも、その筆頭。
 モダンボーイ、略してモボというのが、流行の言い方だ。
 帝都じゃ洋装も珍しくはなくなったが、このあたりじゃハイカラな帝都の学校の生徒の、モボのシンボルだ。
 ついでに言うなら田舎によっては、帝都の学校に受かったとなれば、故郷の星とばかりに、祝いの席が授けられることも珍しくはない。成績はよいが貧しい家の子に対しては、周囲が少しづつ金を出し合って進学させる、なんてこともある。
 たとえ貧乏書生でも、将来有望なエリート候補生と見なされるのだ。
 まあライドウ自身は、そうした環境になかったが、世間一般にはそのように見られることは、知っていた。
 ネコを口実に話しかけてきたこのおばちゃんも、羨望の眼差しでハイカラでモボなライドウを見つめている。
 もう一つ、ライドウが美丈夫である、ということも、おばちゃんに好かれた理由なのだが、そちらについてはライドウに自覚があるのかどうかは、わからない。
 ともかくライドウは、鞄に手を突っ込むようにして、黒猫の首を少し掻き、飛び出すといけませんのでと断りつつ、鞄を閉じる。
「ご主人と一緒に上京できるなんて、幸せなネコちゃんだこと。うちの近所にネコ屋敷があってね、ネコがいっぱいいるからって、わざわざそこにネコを捨てていく人がいるもんだから、ますますネコが増えちゃって…。ネズミが増えるよりはマシだけど、ああも多いと困りものでねえ」
 どうやら、かなりおしゃべり好きな、おばちゃんらしい。
「そうそう書生さん。おばちゃんもハイカラなものに挑戦してみたんだけど、味見てくれないかい? こういうの、帝都の学生さんの間で流行ってるって聞いて、作ってみたんだよ」
「いただきます」
 涼しげな笑顔を浮かべておばちゃんの話を聞き流していたライドウは、差し出された大学芋を見て、本当に嬉しそうにニッコリ笑って即答した。

               ***

(まだ新しいサマナ−、来ないのかなあ。)
(ほんとにここへ来んの? こいつオレたちのこと、全然きづいてねーじゃん。)
 鳴海は、片付けようと手に取った本を、つい読みふけっていた。
 普通の鳴海が、普通でないの専門の探偵業を続けていくために集めた、普通でない専門書の一冊だ。
 昨今は出版ブーム。巷にはさまざまな本や雑誌が溢れている。
 全国に新聞配達網ができ、帝都からニュースだけでなく、それこそ大学芋の作り方まで、地方へと浸透しつつある。
 その中に、普通でない本も紛れ込んでいる。
 とはいえ、いかんせん今求められているのは、新しい時代のための本。
 教養書から解説書、学術的なものから生活全般まで、扱われている内容は様々だが、悪魔の本ともなれば、やはりおおっぴらに売れはしない。
 それは洋書でも同じ理屈どころか、西洋じゃ悪魔の本だなんていったら、持ってるだけで教会に睨まれて、反社会的だと逮捕されかねないから、よけいに少ない。
 魔女狩りの時代はとうの昔に終わっているとはいえ、社会的にはそんなものだ。
 じゃあ西洋では悪魔たちを見て見ぬふりをしているのか? サマナーたちはどうしているのか?
 鳴海が聞いた話では、まず教会にはちゃんとサマナーがいるらしい。ただし、エクソシストだとか、そんな風に呼ばれている。でもって、一部の悪魔のみを天使と称しているらしい。
 ちょっとでもサマナーの素質があれば、それがゴマカシだと気づいてしまう。
 その後は、そのゴマカシに乗って教会付属のサマナーになるか、でなければサマナーの能力などないフリをするか、あるいは教会の権威が及ばぬ場所へ引っ越すか。
 というわけで、西洋から日本へ引っ越してきたサマナーは、実のところ少なくない。
 どうしても、サマナーの才能を持って生まれついたために、悪魔とは無縁でいようと思っても、妙なことに巻き込まれてしまうというレベルの者たちも、日本でなら「西洋人だからそうなのか」と思って貰える。
 おもいきりサマナーの才能を発揮したい者にとっても、日本は教会の権威が及ばない国の中でも文明が発達していて、文化こそ違えど、割と過ごしやすいらしい。
 西洋文化をありがたがる日本の風潮も手伝って、そこそこ仕事もあるし、生活もできる。
 望むならば、サマナーとしての技を磨いたり、悪魔についての研究も可能だ。
 サマナーの中には、自分の悪魔についての研究成果を、秘伝として隠し通そうとする者もいる。秘密を独り占めして、サマナー内での地位を保とうというのもあるが、教会への発覚を恐れて、という部分も大きいらしい。
 サマナーだって、せっかく研究したその成果を霧散させたくない、認められたいと思いもする。
 ついでに言うなら、サマナーだって、霞を食べては生きていけない。
 生活費はしっかり稼がにゃならぬ。
 というわけで、日本へやってきたサマナーの一部は、悪魔についての本を書いた。
 日本の悪魔のことを、日本の風俗と共におとぎ話として本国に紹介した者もいれば、日本語で悪魔についての本を書いた者もいる。
 鳴海が今手にしているのは、その後者だ。
 なんだかんだ言って、一般時が手にする悪魔の本など、それこそ子ども向けの西洋のおとぎ話に限られる。それ以外の専門書となれば、専門家のための少部数本で、結果一冊あたりの価格が跳ね上がる。
 そして鳴海の懐から、収入の多くを毟り取っていく。
 著者は日本語がつたなく、悪魔について知らない編集者による改ざんが見られ、正直鳴海でさえ首をひねらざるを得ない本がいくらでもある。
 けれどそれでも鳴海は、こうした本を愛読した。
 ただし、あれだ。
 つい読みふけってしまうものだから、片付けの方が、いつまでたっても進まない。
(ボクのことが書いてあるよッ! でも、嘘っぱちだね。)
(あらあら、いつまで読んでるつもりかしら。)
 銀の鱗に覆われた悪魔が、ふぅっとその首筋に息を吹きかけると、鳴海は本から顔を上げ、窓の外の傾きはじめた陽射しに気づく。
「あちゃー! もうこんな時間か」
 そしてパタンと本を閉じ、それを書棚に突っ込んだ。
(何しやがる! ちょうどオレ様のページを開いた所だったんだぞッ!)
 文句を言った小柄で黒くて引き締まった悪魔がパチンと指を鳴らそうとしたのを、鱗の悪魔が慌てて止める。
(サマナーが来たら、読んでもらえばいいじゃない。)
(頼んで? 下手に出ろってのか? 使役されちまうのはゴメンだし、そんな甘いサマナー、こっちからお断りだぜ。)
(うああああ、お、おいらは、よんでほしいなぁああ。)
 こっちは同じ小柄で黒っぽいけれど、お腹がぷっくり膨らんでいて、どこかしまりがない。
 身の回りで、そんな会話が行われていることなど気づきもせず、鳴海は本をせっせと書棚に詰め込んでいく。
 小さな子どものような白い悪魔が、本を持ってくる。
(おっちゃん。この本読んでくれよ。)
(その男はサマナーじゃねー。オレたちの声はきこえねーぞー! 無視してやがる! オレを無視してやがるのかぁッ!)
「お、この本こんな所にあったのか。どうしてこういうもんは、探している時は出てこないのかなぁ」
 そしてついまた読み始めると、わらわらと悪魔たちが、その背後に取り憑きのぞき込む。
(おっちゃんおっちゃん! まだページめくるなよッ!)
(あらー、男前の悪魔だこと。こんな男悪魔が、ほんとにいたらいいのにねぇ。)
 が、まだ書棚の前で踏ん張っている悪魔もいる。
(オレオレオレオレオレのことが書いてある、本はないのかーッ! オレだオレッ!)
 背の高い悪魔が鳴海に書棚に取り憑き騒ぎ出すが、鳴海はまったく気づかない。
(こここここっちはどうだぁ!)
 突然、書棚から本が崩れ落ちる。
「うわッ!」
(あ、ダメじゃないの。)
(サササマナーに、おこられるか! オレおこられるか! おこられるまえに、オレたたかうか! オレつよい! つよいぞ!)
(戦うんなら、オレもなかましてよッ!)
「なんだこりゃ、棚板がぐらぐらじゃないか。安物買いの銭うしないだったか」
(ぐらぐらだと? ぐらぐらはゆるせん! オレがゆるせん! だれだ! ぐらぐらにしたのは、どこのだれだッ!)
(あんたが壊したんでしょ。)
「まずはこっちの修理せんとなぁ」
(本、読んでよーッ!)
 部屋の片付けは、当分終わりそうもない。

             ***

 帝都。東京駅。
 流れる人混みもものともせず、立ち尽くしたお上りりさん風の者たちが、口を半開きにして、空を四角く切り取るビルヂングを見上げている。
「そこの書生どの。松本楼には、どっちへ行けばいいんじゃ?」
 田舎から出てきたばかりといった風のじいさんが、都会には似合わぬ大声で、話題の洋風レストランの名前をあげる。
 その男には、手荷物も少なく洋装で、おまけにネコまで連れ、あたりの風景に溶け込んで見えるライドウが、帝都の人間に見えたのだろう。
 自分も上京したばかりでわからないが、たしか日比谷公園の中にあると聞いたと告げる。
「そうか書生どの! ならば案内してくれ!」
 ライドウの目的地である筑土町へは、そもそも東京駅から出ることなく電車を乗り継げばいい。
 それをわざわざ駅から出てみたのは、ちょっとばかり、いやかなり、このビルヂングが立ち並ぶ帝都の街並に、興味があったからだ。
 つまるところ、ライドウもお上りさんの一人。
 ただし、顔に出ない質ではある。
「さあこっちじゃこっちじゃ!」
 男が先に立って歩き始めた時点で、さすがにライドウも、おかしいと気がついた。
 ゴウトがするりと、ライドウの肩に飛び乗り、耳に囁く。
『こやつ、悪魔の擬態だな』
 ライドウは声に出さず、ただ小さくうなずいて見せる。
 歩くたびに、男はボロを出していく。
 まず、影を置き忘れた。
 すれ違う者たちの目に、姿を映し出すことも忘れたようだ。そのせいで、ちゃんと避けてもらえていないし、避けようともしていない。
 なんとなく悪魔の存在を感じ取った人間が、僅かに進路を変えて避けてはいるが、ぶつかれば互いにすり抜けてしまうはずだ。
 こういう細かい所まで気が回らない所を見ると、そう賢くもなければ、能力もない悪魔なのだろう。
 どんどん歩いていく悪魔の背を見ながら、今すぐ黙って回れ右をし東京駅にとってかえしても、すぐには気づかないんじゃないだろうか? と思うぐらいに。
 そのまま筑土町へ向かってしまうというのも、一つの手だ。
 だが、この悪魔を差し向けた、サマナーが気になる。
 ただのイタズラ好きの悪魔なら、その場で仕掛けてくるはずだ。どこかへ誘いだそうとするこの行動は、そう命じた者の存在を感じさせる。
 だがどこの誰が? 何のために?
 無視して筑土町へ向かえば、追ってくるかもしれない。
 駅についた時点で顔が割れているということは、目的地も知られている可能性が高い。
 今後世話になる鳴海という探偵は、悪魔の存在やサマナーについては知っているが、悪魔を見ることのできない普通の人間だと聞いている。
 サマナーのライドウに用があるなら、ここで済ませた方がいいだろう。
「ありゃあ! ここはどこじゃ?」
 いつしか入り込んだ人通りのない裏路地で、男はわざとらしい大声を上げる。
『どことは白々しい。お前がここへ、案内したんだろう』
 ゴウトがライドウの足下から話しかければ、男は目を剥いて睨み付ける。
「案内を頼んだのは、こっちだぞ。なんだ貴様、騙したな」
 あまりの棒読みに、ライドウは眉をかすかに顰めてみせる。
 反論したのは、ゴウトの方だ。
『普通の人間には、我の言葉は聞き取れぬ。茶番はしまいだ。お前にそれを命じた主を出せ』
「主だと。このオレの主はオレじゃ。オレでは交渉相手ならんというか」
『いいから上司を出せ!』
 人通りのない裏路地とはいえ、ここは丸の内。大声で喚いている男がいるというのに、窓から様子を見る人の、一人もいない。
 いやそもそもこの裏路地は、現実に存在しているのかどうかも、怪しいものだ。
 山道などを歩いている時、迷ってしまうことがある。
 見慣れた風景、見慣れた道、すぐそこに集落があるはずなのに、たどり着けない。
 何もない場所で、前に進めない。
 何もかも普通に見えるのに、全てが普通でなく、歩いても歩いても誰とも出会わない。
 とまあ、いわゆる狸や狢にバカされた状態だ。
 そんな時、人は異界と呼ばれる場所に引きずり込まれている。
 この世界に重なる、別の世界。
 悪魔たちが彷徨く世界でもある。
 そしてそれは山道に限らない。都会の街中でも変らない。
 ライドウは足下のゴウトに、交渉してみようと告げる。
『交渉? こいつとか? 他人の悪魔を封魔するなど、聞いたこともないぞ』
 ライドウは、封魔せずとも交渉には価値があると微笑んで見せる。
『確かに交渉術も、サマナーにとって重要な技能。やってみせろ』
 ライドウは一歩前に出て、まだ人の姿をしている悪魔を見据える。
「以前から、擬態が使える仲魔が欲しいと思っていた」
 悪魔は嬉しそうに笑う。
「どうじゃ? 人間そのものじゃろう」
『どこがだ』
 ゴウトのつぶやきは、幸いライドウの耳にしか届かず、そしてライドウもそれを聞かなかったフリをして、ただ悪魔の言葉に頷いて見せる。
「それほどの擬態ができるお前を仲魔にしたサマナーは、さぞかし腕が立つに違いない」
「オレの働きよ。サマナーは、休みもよこさんで、この老骨をコキ使うばっかりじゃ」
「仲魔の働きに支えられてこそのサマナーだ」
「だが悪魔も、たまには休みが欲しい」
「お前のサマナーに会ったなら、仲魔が休暇を欲していると話すとしよう」
 悪魔が化けた人間は、あり得ないほど大きな口を開けて、ニターっと笑う。
「そうか。それならオレのサマナーは、オレを働かせている間、『新世界』というミルクホールにいるんじゃ。そこでなんぞ飲みながら、オレには働いてこいという」
 新世界については、ライドウも話だけは聞いている。
 帝都の銀座にある、サマナーたちのたまり場で、帝都で仕事をする以上、必ず顔を出して置かなければならない場所の一つだ。
「わかった。覚えておこう」
 さっさと帰ろうとする悪魔に、ライドウはさらに声をかける。
「それで、何か用があるんじゃなかったのか?」
「おおそうだ! お前いいヤツじゃな。忘れるところじゃった。新しく帝都にやって来るライドウが、どれほどの実力の持ち主か、ちょっくら戦って確かめて来いと言われたんじゃった」
『歓迎の挨拶というやつだな』
 めったに動揺せず表情も変えぬライドウが、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、その足下で、ゴウトが小さく鼻で笑った。

               ***

 しばらく後、黒猫と一緒に東京駅をうろうろする、妙によれた書生がいた。
 肩にするりと乗った黒猫が、その耳元でニャーニャー言っている。
 書生はまるで、神妙にその言葉を聞いているかのようだった。
 戦いに負けたわけではない。
 予想以上の苦労をしたが、なんとか勝った。
 苦戦の原因は、ライドウの仲魔たちだ。
 仲魔の悪魔を召喚するたびに、戦いもそこそこ、どっかいっちゃったのである。
(ねえ、ここ帝都! 帝都ついたんだよね! すげーッ!)
(合体ッ! 合体ッ! 誰とすんの! どこですんの!)
(さっすが帝都! 悪魔も垢抜けてんなー! ゾンビが洋服着て銃持ってるぜッ!)
 一人で戦い、悪魔は倒したが、帝都見物に出かけてしまった仲魔たちが、みつからない。
『確かにお主には、交渉術の方が必要そうだ。この広い帝都であいつらを探すよりも、新たな悪魔を仲魔としてスカウトする方が、早いだろうからな』
 ゴウトの皮肉っぽい小言を、ライドウはただ神妙な顔で聞くしかなかった。

 鳴海は、事務所の扉が開いた物音に、読みふけっていた本から顔を上げた。
「しまった! もうこんな時間じゃないか」
 そして入り口に佇む、どこか疲れた書生に向かって、笑顔を見せる。
「キミが、ライドウくん? よく来てくれた。オレが鳴海だ。よろしくな」
『なるほど鳴海という人間。確かにただ者ではないな。スカウトする悪魔には、困らんぞ』
 右手を差し出す鳴海の後ろに、葛葉ライドウを見ようと集まった悪魔たちが、所狭しとひしめき合っていた。

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