鳴海の帽子とつむじ風

 

 突風に、慌てて頭を手で押さえる。
 だがその手が掴んだのは、自身のもしゃっとした髪のみだった。
 見事に帽子は風にさらわれ、ビルヂングの合間に見える青空に吸い込まれるように消えていく。
 そこらの路上を転がっていくなら、まだ追いかける気にもなれるが、これではどうしようもない。

 オレってこんなにも敏捷性がなかったっけ? ちょっと身体をなまらせすぎちまったかな?

 鳴海は、無言で肩をすくめると、さっそく新しい帽子について考え始めた。
 洋服と一緒に作ったものだから、同じものは売ってない。
 同じ店に注文すれば、同じものを作ってくれるだろう。
 だが同じ生地があればだ。ないかもしれない。
 いっそ上から下まで、一式新調しちまおか?
 ちょうどここは銀座だし、さらにポケットには、その頭金にしろとばかりに、事務所の家賃が入っている。
 家賃は待たせておけばいいが、帽子がないのは一刻だって落ち着かない。新調するったって、今日明日というわけにはいかない。となれば今すぐかぶるための、この服にあった帽子が必要だ。
 確かにこの時代、洋装するなら帽子は必需品。いや、和装であっても、帽子を被っている者が、少なくない。
 よほどの金持ちなら、帽子一つ無くしたからという理由で、服をまるごと新調するなんて話もある。
 だが、鳴海がそんな富豪でないことだけは、確かだった。
 服だって今着てるヤツが一張羅。
 帽子だって予備の一つも、持ってない。
 ついでに言うなら、没落しても経済感覚がズレたままのボンボン崩れが、趣味で探偵の看板をかかげている、というわけでもない。
 無くしたお気に入りの帽子と、余計な出費についての悲しみを、景気のいい妄想で紛らわせただけだ。

 金は、なくはない。
「普通のお断り」な探偵業は、うまくいっている。
 いつだって帽子を新調できる程度の収入は、確保している。
 ただ、出費が多いだけで。
 それに帽子代は必要経費だ。仕事の都合で偉いさんがらみのときは、きっちり身なりを整えてなければ、怪しまれて足下を見られかねない。
 そうだ。帽子は絶対に必要だ。
 だが鳴海は、服の上から内ポケットの中の家賃の入った封筒を押さえて、ため息をついた。
 遅らせたことはあるが、踏み倒したことはない。
 遅らせたからといって、イヤミの小言やお叱りの一つ二つは言われるが、すぐさま事務所から追い出すような大家でもない。
 だが、ライドウのことを、「あんたは家賃をまともに払う金もないのに、書生を置くのか」と言われるのがつらい。
 いや自分が言われるなら構わないが、ライドウには聞かせたくない。
 基本、書生は貧乏学生だ。
 地方から帝都の学校に進学したとき、帝都住まいの親戚の家に住まわせてもらうかわりに、その家の雑用をするというのが、基本スタイル。
 金持ちの商人や政治家なんかだと、見所はあるが金がないヤツの学費まで丸抱えして、将来の後継者や部下としてツバをつけておく、なんてこともある。
 どう間違っても後者ではない鳴海は、大家にはライドウのことを、故郷の恩人の親戚の子だと紹介した。
 噂好きな大家の前で話すうちに、いつのまにか『関西方面にある、とある地方の山ん中にある小さな村の、時代の流れで金はないが由緒正しい名家の子息。鳴海にとってその家の先代は恩人で、先方からも気にいられ信頼もされ、ライドウが帝都に進学するとなった時、探偵事務所の片隅でいいから、是非とも書生に置いてくれと頼まれた』ということになってしまった。
 鳴海が大家に話した内で、真実を伝えているのは、たぶん『ライドウの好物は大学芋』という点ぐらいだ。
 最初ごちゃごちゃぶつぶつ言っていた大家も、実際ライドウと会ってからは、時折大学芋を差し入れてくれるぐらい、彼のことを気に入っている。
 いやそれどころか気に入りすぎて、鳴海なんていういい加減なヤツのところじゃなく、うちの書生になれとまで言い出した。
 さらにはライドウに縁談を持ってきそうになった時には、『ライドウには故郷に親が決めた許嫁が待っているし、師範学校を卒業したら村の学校で先生になることが決まっているのだ』なんて話まで、できてしまった。
 こんな風に、ライドウの経歴は、鳴海のその場の思いつきによる脚色と付け足しの設定のせいで、矛盾だらけになりつつある。
 支払いを待ってくれと切り出したら、また「そんなんで、ライドウちゃんにちゃんとゴハン食べさせてあげてるの」「こき使って学業がおろそかになってるんじゃないの」「だったらライドウちゃんは、うちで引き取って」なんて話になりかねない。
 ちなみに鳴海はライドウに、ちゃんと食べさせている。・・・つもりだ。
 店屋物や外食は多かったりするし、ライドウがいらないというときは、自分だけバタートースト6段重ねコーヒー付きを食べたりもするが、ひもじい思いはさせていない。
 なんか、あの年の頃の俺より小食だなぁ、という印象はあるが、ライドウが遠慮している様子もなく、腹を空かせている様子もないので、個人差ということで納得している。
 学校での昼食に困っている様子もないし、鳴海の生活がひどく不規則なせいもあり、勝手に外食していることも、少なくない。

 それに、なんというか、ここ数日食べさせてもらっているのは、鳴海の方なのだ。

 そもそもライドウは、普通の書生ではない。
 鳴海の、普通でない探偵業の一環として、普通でない書生を預かっているというのが、正しいところなわけで、預かり賃も、ライドウの生活費込みで並の賄い付きの下宿代以上にもらっている。
 ライドウが鳴海の仕事の手伝いをする必要もないのだが、それもライドウの仕事と修行の一環で、さらに探偵の助手という身分が、ライドウにとって都合がいいらしい。
 鳴海が給料を払ってでもいいぐらいの働きを、ライドウはしているわけだが、鳴海は一銭も払わずにすんでいる。
 小遣いぐらい与える立場ではあるけれど、気がついたらライドウの方が、よっぽど懐に余裕があった。
 探偵事務所にくる仕事のうち、ライドウが独自に解決したものは、その報酬をライドウが得る、ということにしているからでもあるが、それ以外独自の稼ぎ口、というかライドウ自身の本業で、そこそこの稼ぎがあるようだ。
 その上、無駄使いしない。
 仕事がら必要な、普通の書生には手に入らないような高い物も、その金で調達している。
 というわけで、ライドウという書生を預かっても、鳴海の懐は痛まなかった。
 それどころか、ライドウの預かり費と通常の仕事の収入を合わせれば、つまり、なんというか、帽子代など余裕で出るはずで、なのにここ数日ライドウに飯を奢ってもらうはめに陥っているわけで。
 そして今、この内ポケットに入っているお金には、家賃だけでなく、ライドウに返す分とか、当面の生活費とかも含んでいるわけで。
 安物でも洋物の帽子を買ったら、ライドウに金を返すどころか、また飯をたからなければならなくなる。
 そりゃライドウは自分から、金を返せなど言いはしない。
 イヤな顔もせず、飯代を貸してくれるだろう。
 まだ行きつけの洋食の多原屋じゃ、「やあ鳴海さん。財布を丸ごとライドウ君にあずけてるのかい? 信用してんだねえ」だとか、「たしかにライドウちゃんが財布持ってた方が、鳴海さんが無駄使いしなくていいわね」なんて言われるだけで済んでいる。
 いや他人の目より、正直この状況は、大人としてやばい。やばすぎる。
 先月は、やばくなる前に次の仕事と収入があると見込んで、使い切った。その結果が、今の状況だ。
 鳴海はぽりぽりとむき出しの頭を掻くと、銀座のデパートに背を向けて、そのまま探偵事務所に帰ることにした。
 収入があるまで、しばらく帽子はあきらめよう。

 探偵事務所に帰ったとたん、頭に注がれたライドウの視線に気づき、「おかえりなさい」を言われる前に、鳴海は釈明した。
「いやぁ、急な風にさらわれちまってね。今頃どこの空の下、どこの屋根の上ってわけさ」
 おどけて言えば、ライドウもフッと笑みを漏らしてから、窓の外を見る。
 そのとたん、窓枠がガタガタとゆさぶられた。
「な? ずっと風が強いなら注意のしようもあるが、なにしろ突然だ。今日は空に洗濯物やら帽子やら、いろいろ飛んでるんじゃないか? 今日は鎧戸を閉めた方が、いいかもしれんぞ」
 ライドウが窓を開けたのは、鳴海がちょうどそう言った時だったから、鳴海はてっきりライドウが、鎧戸を閉めようとしたのだと思った。
 だがライドウは、窓の外に向かって指さして、何か言った。
「どうした? 何か見えるのか?」
 鳴海がそう言って椅子から立ち上がったとたん、窓から盛大な砂埃まじりの突風が、事務所内に吹き込んできた。
 あまりの勢いに一歩下がった鳴海は、砂埃に目が開けられぬまま、部屋中のあれやこれやが風に舞い上げられた様を、耳にした。
 確かに耳にしたのだ。
「ライドウ! 窓を閉めろッ!」
 それだけ言う間にも、口の中に砂が飛び込んでくる。
 唐突に、風が止んだ。
 鳴海は部屋の惨状を想像し、おそるおそる目を開ける。
 そして目を見開いた。
 窓は、すでに閉められている。
 机の上に、うっすらと砂がつもっている。
 床や自分はよくわからないが、黒い学生服のライドウも、砂まみれだ。
 葉っぱだとか小枝だとかも、あちこちに転がっている。
 だが、部屋の中にあったものは、紙一枚動いていない。
「こりゃあ、なんだ?」
 状況を見て取った鳴海は、思わずニヤリとした。

 普通じゃない専門の探偵事務所を開くぐらいだ。鳴海はこの手の怪奇現象が、好きな方である。
 子どものころ憧れた暗闇の中に潜むオバケたち。魑魅魍魎の世界。好奇心をそそられる。ワクワクする。
 好きこのんでせっせと首を突っ込んできたからこそ、そんな話がどれもこれも、勘違いや捏造や、疑う心が暗がりに映した幻の鬼だと知ってしまった。
 年々大きくなっていく帝都。
 次々発明され、世の中にあふれていく科学の産物。
 電灯や街灯によって退けられる闇。
 進歩について行けない者たちや、その変化と先行きを恐れる者たちがすがりつく、古い迷信と、時にヒステリックな新興宗教。
 いろいろあって、失望から現実主義に傾いた鳴海は、そこで現実に失望もしたし、本物の怪奇現象らしきものも、目の当たりにした。
 まあ、いろいろあったというやつだ。
 そして、普通じゃない専門の探偵に商売替えをした。
 持ち込まれた時点では怪異でも、調べてみれば、幽霊の正体みたり枯れ尾花ということが大半で、すでに事件を記録した探偵ファイルは、枯れ尾花が満開になっている。
 それでもなんとか怪しい方面とのコネを開拓した。
 けれどどうも怪しい連中は、鳴海を怪しい中に紛れ込む普通の事件を頼むのにちょうど良い相手として見ているらしい。
 あるいは、普通の連中との交渉請負人として。
 サマナーと呼ばれる普通ではない者たちにとって、鳴海は所詮部外者だ。
 けれど、ライドウが来た。
 最初サマナーと聞いて期待して、けれど普通の青年にしか見えなくて、少しがっかりした。
 クダというものを見せてもらったが、鳴海には装飾のある金属パイプのようなものにしか見えなかったし、ライドウが連れてきた黒猫のゴウトも、普通ではないと聞いていたから化けでもするかと思ったが、ただの黒いネコにしか見えなかった。
 そうではない、と期待したい。
「たしかポルターガイスト現象にこんなやつが…」
 あったっけ? と言う前に、ここは室内で、もう窓も閉まって風もないのに、頭の上から一山の小枝をあびせかけられた。
「うわッ!」
 払い落とそうとして、頭の上に乗っかっているものが、小枝だけではないことを知る。
「こりゃあ!」
 空の彼方へ消えたはずの、鳴海の帽子だった。

 砂埃まみれで、小枝やら葉っぱやらの破片をくっつけたお気に入りの帽子の手入れをしながら、鳴海はご機嫌だった。
 ライドウの話によると、最後のあれは、ポルターガイストと間違えられたイチモクレンの、ちょっとした意思表示であったらしい。
 砂だらけの事務所の掃除は大変だったが、お気に入りの帽子が戻って来た。
 その帽子を片手でくるくると回しながら、分厚い本を開く。

一目連大神(イチモクレンダイジン)
 一目連大神は、おもに江戸時代の庶民から信仰されていた神で、その地方の空を稲光させたり、風雨雷鳴をもたらすとおそれられていた神である。台風やつむじ風を神格化したもので、その名は中部地方の方言で「つむじ風」を現わす「一目連」からきている。
(中略)
 天津彦根尊(あまつひこねのみこと)の第三子である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)だとも言われている。【新紀元社 東洋神名事典】

「ほお、神様なのか」
 もっともライドウの話では、巷でいう神だ悪魔だ幽霊だ妖精だといった種別も区別も、あまり意味がないらしい。
 サマナーたちは、全部ひっくるめて悪魔と呼んでいるそうだ。
 いずれにしろ鳴海には、イチモクレンの姿は見えない。
 だが、このお気に入りの帽子がある。
 銀座で空に舞った帽子が、筑土町の事務所の窓に飛び込んでくるなんていう偶然は、偶然であるはずがない。だいたい帽子が鳴海の頭の上に現れたのは、窓が閉まって、風も止んで、しばらくたってからなのだ。
 こうして鳴海のお気に入りの帽子は、特別お気に入りの帽子になった。
「ありがとさん、イチモクレン。また頼むよ」
 そう声に出したとたん、窓がガタガタと音を立てた。
 きっとイチモクレンが返事をしたのだと思うと、なんだか嬉しかった。
 今後どこかで小さなつむじ風を見るたびに、その中心でイチモクレンが周り踊っていると、信じられる。
 たとえ目に見えなくても、そこにいるのだ。

               ***

 翌朝、物音に何事かと事務所をのぞき込んだライドウは、微かに顔をしかめた。
 開け放たれた窓に向かい、朝の光を浴びながら、鳴海が立っている。
 その背中を、小刻みに震わせながら。
 頭に、鳥の巣のごとき一山の小枝と、ひしゃげた三つの帽子が乗せたまま。
 もちろん彼に見えはしないが、ライドウの目には、鳴海の背中にへばりつき、褒めてくれとばかりに懐いていている、イチモクレンの姿が見える。
 鳴海は、頭の上のあれこれを落とさないよう、ゆっくりと全身で振り向くと、ライドウに向かって、口元に引きつった笑みを浮かべて見せた。

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