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Name:山北 篤

RPGにおいて、プレイすべきロールとは何か

Date:1999/10/26(火) 10:21

 ロールプレイングゲームとは、その名の通りロールをプレイするゲームである。では、プレイすべきロールとは、一体なんなのか。これを、RPGの世代とともに検討してみよう。



1)アビリティ・プレイ

 第1世代RPGの時代からあるロールプレイである。というよりも、第1世代のころは、ロールプレイといえばアビリティ・プレイであった。

 PCの能力上の役割をプレイするのが、アビリティ・プレイである。例えば、戦士なら武器を使って敵と戦う。盗賊なら、罠を発見し、解除する。このように、自分のPCの能力を把握し、それに相応しいプレイをすることは、基本中の基本である。

 これに反する行動は、たいていの場合他のプレイヤーの迷惑になる。例えば、『D&D』をプレイしているときに、戦士が「俺は戦いが嫌いだ」とか言って、前線で戦ってくれなかったとしよう。これは、迷惑行為にほかならず、『D&D』のプレイヤーとして失格である。

 しかし、これだけで満足できなくなった人々は、新たなロールプレイを発明した。それがキャラクター・プレイである。



2)キャラクター・プレイ

 第2世代RPGによってクローズアップされだしたのが、キャラクター・プレイである。

 PCの人格をプレイするのが、キャラクター・プレイである。例えば、乱暴だとか、臆病だとか、そういったPCごとの個性を出そうというのだ。

 アビリティ・プレイでは戦士なら、ともかく前線で戦わないといけない。しかし、それだけではないはずだ。同じ戦士キャラクターでも、違うPCなら違う言動をするのではないかと考えたのが、キャラクター・プレイの始まりである。

 ただし、間違ってはならないのは、キャラクター・プレイを極端に推し進めることで、アビリティ・プレイを損なってしまうことだ。このようなプレイヤーは時々いて、キャラクター・プレイをまるで悪いものであるかのように思わせる原因になっている。

 両者は、共にロールプレイの一環なのだから、両方とも損なってはならないのだ。

 それに考えてもみよ。戦いが嫌いで逃げ回るようなキャラクターが、戦士になろうと考えるだろうか。あるアビリティを持ったキャラクターをプレイするということは、そのキャラクターがそのアビリティを望んで得た、もしくは望まなかったにせよ受け入れたことを表している。つまり、アビリティ・プレイもキャラクターの個性の表現の一部なのだから、それを無視するということは、結局そのプレイヤーはキャラクター・プレイを行っていないのだ。

 自分のキャラクターは嫌々戦士にさせられたのだから逃げて当然と主張する人は、一つ大きな見落としをしているのだ。なぜなら、例えばそのキャラクターが剣技を身につけているとしたら、嫌々かもしれないが、そのキャラクターは剣をふるったことがあるはずなのだ。ということは、何らかの状況になれば、そのキャラクターは嫌々剣をふるうはずである。それを無視して、いかなる状況でも剣をふるわないのだとしたら、それはそれでキャラクターの人格を無視しているのだ。

 というわけで、真のキャラクター・プレイは、キャラクター・プレイ+アビリティ・プレイなのである。

 しかし、これにも満足しきれない人々が現れた。それは、どんなにキャラクター・プレイを行っても、それに対応してくれるキャラクターがいなければ、何の役にも立たないということに、人々が気付きはじめたからだ。

 こうして、さらに新しいロールプレイ、リレーション・プレイが作られた。



3)リレーション・プレイ

 第2世代RPGに、その萌芽が見られるのが、リレーション・プレイである。

 これは、PC同士の人間関係をプレイすることである。2人の人間がストーリーに登場すれば、その人間関係が問題になってくる。我々だって誰かに会えば、その人間が学校の先輩なのか、会社の同僚なのか、趣味の同好者なのか、近所の人なのかによって、その態度を変えるであろう。

 普段、くだけた態度でしゃべる人だって、会社の重役を目の前にすれば、それなりにきちんとした礼儀正しい態度を取るはずだ。

 また、穏やかな人でも、自分を嫌って嫌味ばかり言う人に対して、親切に行動するのは難しいだろう。

 これが、リレーション・プレイである。『ルーンクエスト』のカルト間の態度というものによって、それぞれのPCの態度が影響されるというのが、リレーション・プレイの萌芽ではないだろうか。同様のものに、『Vampire:The Masquarade』などの一連のシリーズが、その所属するグループごとの関係をPC間の人間関係に流用するという点で、『ルーンクエスト』と全く同じ手法を使っている(そう考えてみると、このシリーズ、世間一般に思われているほど先進的ではない。十年以上前の手法から進歩していないのだから)。

 ただ、『ルーンクエスト』の手法では、プレイヤーはそれぞれ自分が独自の人間関係を成立させていると錯覚しているが(『ルーンクエスト』の非常に優れた点は、プレイヤーにそういう幻想を抱かせることができるというところにある。つまり、RPGが共同幻想である以上、プレイヤーに「自分たちは独自の幻想を作成しているのだ」と錯覚させることができるのだから、このシステムは優れた共同幻想発生器なのだ)、実はカルトごとのステロタイプな行動をしているだけである。

 このような、ステロタイプな人間関係をなぞらせる以外のリレーション・プレイを作り出すシステムは、現在のところ存在しない。

 実は、『トーキョーN◎VA』は、第3版の作成時にこの研究を始め、結局間に合わなかったが(『スターロード』でも間に合っていない。こちらは、シナリオ作成についての改革を行うので精一杯で、こっちまで手が回らなかった)、『トータル・エクリプス』で、その一部をゲームマスターの手法として発表している。

 ただ、この夏発売予定のF.E.A.R.の完全新作RPGでは、これらを目標としたルールが導入される予定である。これによって、日本のRPGは、「ロールプレイとは何か」という問題について、海外のRPGを完全に抜き去ることになるだろう。



4)ストーリー・プレイ

 これは、まだ確立された手法も無ければ、サンプルとしてのシステムも存在しない。そもそも、ロールプレイというものが、ここまで包括的な概念であると思いついた人間もほとんどいないようだ(海外を含めてもだ)。

 ただ、物語の登場人物というのもは、必ずストーリーにおける何らかの役割を持たなければならない。ならば、RPGにおいて、主要登場人物であるPCは、RPGによってつむぎだされるストーリーにおいて、何らかの役割(ロール)を果たすべきではないだろうか。

 これが、ストーリー・プレイの基本思想である。

 実は、これを再現すべきRPGは、既に存在している。『熱血専用!』である。この点において、『熱血専用!』は、今だに世界で唯一のRPGである。

 ただ、『熱血専用!』には、この思想を実現するために、自らに大きな制約を加えなければならなかった。それは、作り出すストーリーを完全に1種類に固定すること、通常のRPGでなら行うべき、アビリティ・プレイやキャラクター・プレイをほぼ無視することの二つである。

 この制約の大きさのために、『熱血専用!』は、そのコンセプトの新しさの割に世間の評価は高くなかった(一部に熱狂的ファンはいたものの)。しかし、そもそもこのコンセプトを世界で最初に実現したという点で、もっと高い評価を与えられるべきRPGである。

 しかし、真にストーリー・プレイを実現するRPGは、今まで存在したアビリティ・プレイ、キャラクター・プレイ、リレーション・プレイを取り込み、包括した形でストーリー・プレイを実現しなければならない。

 そして、その方法論は、今だ霧の中でしかない。しかし、我々は、徐々にこれを解明しつつある。これまた『トーキョーN◎VA』のシナリオなどを読んでいれば(そういう意味で、『トーキョーN◎VA』とは様々な実験を行いやすい環境なのだ)、我々の研究の一端に触れることができるだろう。