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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2003.10.24
2005.1.15
2020.06.05
2023.10 最終更新日 最終更新日

第二章   イルカに乗る者

 昇ったばかりの太陽が、すでに容赦なく照りつけていた。輝く青空に雲はなく、海にはさざ波の気配もない。メドゥーサ号は、バルタザールの意見で、ブエノスアイレスの南方二十キロあたりにある、海面に二つの岩が頭を出した岩礁の近くの小さな入り江に錨を下ろしていた。
 入り江のいたるところに散ったボートには、真珠採りが二人づつ乗り込んでいる。二人は潜水役と引き上げ役となり、時々交代するのだ。
 一隻のボートが海岸に近づいた。そして潜水役がロープの端にむすんだ大きなサンゴ質の石灰岩を足にはさんで、すばやく海底に潜って行く。
 水はとても温かく澄んでいて、海底の岩の一つ一つがはっきりと見えていた。
 岸に近づくにつれ珊瑚が海底から枝を伸ばしている様は、水中庭園の凍り付いた茂みのようだ。金銀に輝く小魚たちが、その茂みの中を飛び回っている。
 潜水役は海底に到着すると、かがみ込んで素早く貝を集め、紐にむすんだ袋に入れていく。彼とペアを組んでいるヒューロン族のインディオは、ロープの端を手にしたままボートの上から身を乗り出し水中を見つめていた。
 突如、彼は潜水役が腕を振り回すのを見た。そして潜水役はヒューロンを水中に引きずり込みそうになるほどロープをつかみ強く引っ張った。ボートが揺れる。ヒューロン族のインディオは、あわてて相棒を引っぱり、ボートに引き上げた。
 潜水役は、大きく口を開けてぜいぜい言いながら、ボートの底に倒れこむ。目はまん丸に見開らかれ、濃い茶色の顔は、今は土気色になっている。
「サメか?」
 しかし相棒は、話すことすらできず、船底に倒れ込んでいる。海の底で何が彼を驚かせたのだろう? ヒューロンは身をかがめて海の中を覗き込んだ。何かが起きていた。小魚たちは、鷲を見た小鳥が森の中に逃げ込むように、海中の鬱蒼とした雑木林の中に、急いで逃げ込んでいる。
 ヒューロン族のインディオは、突然水中に紅い煙のようなものが立ち上ったのを見た。煙はピンク色になりながら、ゆっくりと広がっていく。そして黒いものが現れた。それはサメの死骸だった。サメはゆっくりと向きを変え、岩陰に消えていった。水中の紅い煙は、海中に流れ出たサメの血としか思えない。何が起きているのか。ヒューロンは相棒を見たが、彼は仰向けになったまま動かず、大きく口を開けて息をし、ぼんやりと空を見つめている。ヒューロンは、急病の相棒をメドゥーサ号に運ぼうと、オールをつかんで急いで漕ぎ出した。
 ようやく我を取り戻した潜水役は、だがまるで言葉を失ったかのように口をもごもごと動かし、頭をふり、息を吐き出し、唇を震わせた。
到着早々、船にいた者たちが、何事かと集まってきて取り囲む。
「話してよ!」と、若いインディオが潜水役を揺さぶって叫んだ。「怖がってないで、話して」
 潜水役は首を振り、かすれた声で話し始めた。
「あれを見た……。海の悪魔を」
「あれ?」
「いいから話せ、話すんだ!」と、周囲の者たちがすぐさま叫ぶ。
「サメがいた。サメは私の方にまっすぐ泳いできた。大きな暗い口が迫って、もうおしまいだと思った。けれどヤツがやって来た。俺はヤツが泳いでくるのを見たんだ……」
「別のサメか?」
「悪魔だ!」
「どんな? 頭はあったのか?」
「頭か? そう、あったような気がする。目はガラスのような」
「目があるなら、頭だってあるさ」若い真珠採りが断言する。
「目のことはわかった。しかし、足はあったのか?」
「前足は、カエルみたいだった。指が長くて、爪があって、水かきがあって、緑色だった。体には魚みたいな光る鱗があった。ヤツはサメに向かって泳いでくと、輝く前足を突き出した サメにだ! すると、サメの腹から血が流れ出した」
「後ろの足はどうなってた」
「後ろ足か」彼は思い出そうとする。「足はまるでなかった。大きな尻尾だ。蛇のようにくねくねした二股の尾だ」
「それでサメと怪物の、どっちを怖がってるんだ」
「もちろん怪物だ」と、彼は即答した。「オレの命を救ってくれた……が、海の悪魔は怪物だ」
「もちろんだ。海の悪魔は怪物だ」
「海の悪魔は」と、年配の真珠採りが言った。「貧乏人を助けてくれる海の神様かもしれん」
 このニュースは、あっというまに入り江中のボートに広まった。
 真珠採りたちは帆船に急ぎ、ボートを船に引き上げると、海の悪魔に助けられた男を取り囲んで質問攻めにした。そして彼は、求められるまま他の者たちに話を繰り返すうちに、怪物は鼻から赤い炎を出し、歯は鋭く指ほどもあったと言い出した。耳は動き、ヒレがあり、オールのような尻尾があることになってしまった。
 ペドロ・ズリタも、ソンブレロ帽に白い半ズボン、素足にサンダルをつっかけ、ベルトの上は裸といういでたちで甲板にやってきて、この話を聞いていた。
語り手が夢中になって語るほど、ズリタはその話がサメに襲われかけた男の作り話だと確信するようになった。
(しかし、まったくの作り話ではなさそうだ。誰かがサメの腹を割いた。ピンクに染まった海の水を俺も見た。こいつは嘘をついているが、真実も含まれている。今までの奇妙な事件と、関係があるに違いないぞ!)
 突然聞こえてきた角笛の音によって、ズリタの思考はさえぎられた。
 音は雷鳴の轟きのように、メドゥーサ号の人々に衝撃を与えた。皆青ざめ、おしゃべりの声が消える。迷信におびえる真珠採りたちが、角笛の音がした岩の方を見る。
 岩からそう遠くないところで、イルカの群れが海面で遊んでいた。一頭のイルカが、角笛の音が合図であったかのように群れから離れ、高々と潮を吹きながら岩の向こうに姿を消す。そして張り詰めた一瞬の後、ふいに岬の向こうからイルカが姿を現した。姿を消したその一瞬の間に、イルカは男が話した通りの悪魔を、背に乗せていた。まるで馬に乗るかのように、悪魔はイルカにまたがっている。
 体つきは人間のようだが、とてつもなく大きな顔に、自動車のライトのガラスのような目があり、それが太陽を反射して光っている。肌は青っぽい銀色の鱗で覆われ、カエルのように指が長く、その間に水かきのある手は、暗い緑色だ。足の先は海面下にあるので、尾なのか、人間の足のようになっているのかは、わからない。手には巻貝を持っていた。そして貝を吹き、陽気な笑い声を上げ、突然はっきりとしたスペイン語でこう叫んだ。
「もっと早く、リーディング!」リーディングはスペイン語ではなく英語で、「先へ」か「前へ」だ。
 そして怪物は、イルカのつやつやした背中を、カエルの手で軽く叩き、足でわき腹を蹴ると、イルカはよい馬のようにスピードを上げた。
 真珠採りたちが、ついに悲鳴を上げた。
 奇妙な騎手が振り向いて人々を見ると、トカゲのようにするりとイルカから滑り落ちて、イルカの体の影に隠れてしまった。そしてイルカの背後から緑色の手だけを海面に出し、イルカの背中を叩く。するとイルカも水中に潜ってしまった。
 そして悪魔とイルカは、水中を旋回して水中の岩陰に消えていった……。
 これらの異様な出来事が始まってから一分たらず。ついに見物人たちの心の奥底までに、驚愕が染み渡ったらしい。
 真珠採りたちは叫び、頭をかかえて甲板を走り回った。インディオたちはひざまずいて海の神に助けを求めた。若いメキシコ人は、恐怖のあまりマストの天辺に駆け上がって叫びだした。黒人たちは船倉に転がり込んで隅に隠れた。
 もう真珠採りどころではない。ズリタとバルタザールには、船の秩序を立て直すのに苦労した。そしてメドゥーサ号の錨を上げて、北へ戻ることしかできなかった。

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