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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2003.11.15
2005.1.15
2020.06.05
2023.10 最終更新日

第十一章  若い娘と浅黒い男

 ある日、雷雨の後で泳いでいた時のことだ。
 海面に出ると、そう遠くないところに、漁をする帆船から吹き飛ばされた白い帆のようなものが、波間を漂っているのに気がついた。近づいてみて彼は驚いた。それは人……女性……若い娘だったのだ。彼女は板に縛り付けられていた。
 この美しい娘は、死んでいるのだろうか? イフチアンドルは動揺し、初めて海を憎んだ。
 それとも彼女は、意識を失っているだけなのだろうか? 彼は力なく傾いた彼女の頭を板の上に乗せてやり、板をつかんで岸へ向かって泳ぎ始めた。
彼は全力で泳ぎ、板から滑り落ちた彼女の頭を治してやる時だけ止まる。
彼は、困っている魚にするように、彼女にささやいた。「もう少しの我慢だからね」彼女が目を開けることを望み、それを恐れた。彼は彼女が生き返るところを見たかった。けれど、彼女が彼を怖がるのではないかと心配した。
 水中眼鏡や手袋を外した方がいいだろうか?
 しかし時間がかかるし、手袋なしで泳ぐのは難しい。彼はそのまま泳ぎ続け、板と娘を海岸へと押していく。
ついに波打ち際に到着した。波に巻き込まれないよう注意する。
 時々足を下ろして確かめる。……よし、海底だ。最後に彼は浅瀬に上がり、彼女を岸に運んで板から下ろす。砂丘の日陰にある草むらに運び、人工呼吸をして彼女を蘇生しはじめる。
 彼女の睫毛が微かに震え、まぶたが動いた。イフチアンドルが娘の胸に耳をあてると、小さく鼓動が聞こえてきた。
 彼女は生きている……。叫びたいほど、嬉しかった。
 娘のまぶたがわずかに開いて、イフチアンドルを見た。とたんに彼女の顔は恐怖に歪み、そして再び目を閉じてしまう。イフチアンドルは悲しみ、そして同時に安堵した。
 彼は彼女を救った。娘を怖がらせないためには、ここを去った方がいい。けれど意識のない娘を、こんな場所に残していっていいものだろうか?
 そう考え込んでいたとき、早く激しい足音が聞こえてきた。これ以上考えている暇はない。イフチアンドルは、頭から波に飛び込み、潜ったまま岩礁に向かった。そして岩陰に隠れて海岸を覗き見る。
 口髭とヤギ髭を生やし、幅広帽をかぶった浅黒い男が、砂丘の後ろから馬に乗ってやってきた。男は、スペイン語で静かに言った。「彼女だ。イエス様に栄光あれ!」そして娘に駆け寄ろうとしたが、突然方向を変えると波打ち際に向かい、波の中に飛び込んだ。彼はずぶ濡れになると彼女に駆け寄り、人工呼吸を始めた。(なぜ今さらするんだろう?)そして彼女の顔に顔を寄せ、……彼女にキスをした。彼は早口で、熱心に語りかけている。イフチアンドルにも、その言葉が切れ切れに聞こえた。
「注意したのに……。バカなことをする……。板を結んでおいて良かった……」
 娘は頭をもたげ、目を開いた。その顔に現れた恐れは驚きに、怒りに、そして不満にと変わっていく。
 ヤギ髭の男は、彼女に何かについて熱心に話し続け、彼女が起き上がるのを手伝った。
 けれど彼女はまだ衰弱していたので、彼は彼女を砂の上に横たえた。三十分後、彼らはイフチアンドルが隠れていた岩のそばを通って、帰って行った。
 彼女は顔をしかめながら、幅広帽をかぶった男に向かって言った。
「それで、あなたが私を助けたって言うの? 感謝するわ。神様のお恵みがありますように!」
「俺にお恵みを与えられるのは神様じゃない。お前だ」と、浅黒い男は言った。
 娘は、その言葉を無視した。そして彼女は立ち止まり、こう言った。
「おかしいわ。私のすぐそばに、怪物がいたような気がしたのに」
「もちろん気のせいだ」と、男は答えた。「でなきゃ悪魔がお前を死体だと思って、魂を取ろうと寄って来たのかもしれん。神に祈って俺に寄りかかれ。俺と一緒にいれば、悪魔もお前に触れることなどできないさ」
 こうして美しい娘と、自分が救ったと彼女に言い張る悪い男は、通り過ぎていった。
 イフチアンドルには、その嘘を暴くことはできなかった。彼は自分の仕事を果たした。あとは彼らの好きにすればよい。
 二人は砂丘の向こうに姿を消すまで、イフチアンドルはその姿を目で追った。それから彼は海を見る。なんて広くて荒涼としているのだろう!
 波が、紺色の魚を、砂浜に打ち上げた。魚は銀色の腹を見せている。
 イフチアンドルは周囲を見回す。周りには誰もいない。彼は隠れていた場所から走り出し、魚を海に放り込む。魚は泳ぎだしたけど、イフチアンドルはなぜか悲しくなった。彼は誰もいない海岸を歩き回り、魚やヒトデを拾っては、海に帰してやった。次第に彼は、その仕事に夢中になっていった。
 やがてイフチアンドルはいつもの機嫌を取り戻し、時折海風でエラが乾燥したとき海に飛び込むだけで、夕方までこの作業をし続けた。

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