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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2004.04.17
2005.01.15
2020.06.05
2023.10 最終更新日

第十三章  市街にて

 イフチアンドルは、入り江から泳いでやってきて、上陸した。
 クリストは、すでに白い背広を用意して、彼を待っていた。
 イフチアンドルは、まるで蛇の皮であるかのように背広を見つめ、ため息をついて着替え始めた。今まで背広を着たことは、ほとんどなかった。
 クリストは、彼がネクタイを結ぶのを手伝い、そしてイフチアンドルをじっくりと見て、彼の容姿に満足した。
「じゃ、行きましょうや」と、クリストは陽気に言った。 
 彼はイフチアンドルを驚かせてやろうと、町の大通りを案内した。
 まずアベニーダの五月大通り・それからヴィクトリア街の近くにあるムーア式の市庁舎やカテドラル(大聖堂)・フエルト広場・五月二十五日広場(1810年五月二十五日に革命同盟フンタを結成し、地元当局を拘束して臨時政府を宣言し、スペインから独立したことを記念する広場)・美しい木々に囲まれた自由のオベリスク(尖塔)・大統領官邸の見物をした。
 けれどクリストの思惑は、外れてしまった。イフチアンドルは、都市の騒音・交通量・埃っぽさ・喧噪に、参ってしまったのだ。彼は人ごみの中であの娘を見つけようとして、何度もクリストの手を掴んで「彼女だ!」とささやいた。けれどすぐに、間違いに気がついて、「違った、この人じゃない」と言った。
 昼が近づき、暑さが絶えがたくなってきた。クリストは昼食を食べるために、地下にある小さなレストランに誘った。そこは涼しくはあったけれど、ひどく騒々しい所だった。
 薄汚れた粗末な身なりの人々が、ひどい匂いの葉巻を吸っていた。彼らはしわくちゃになった新聞を振り回し、声を張り上げわけのわからない言葉で言い争っている。
 イフチアンドルは煙に巻かれて窒息しそうだった。彼は、冷たい水をがぶのみしたけれど、食事には手もつけず、悲しげにつぶやいた。
「この人の渦の中から誰か見つけるより、海で顔見知りの魚を見つける方が簡単だよ。あなたの街なんて大嫌いだ! ここは息苦しくて臭いよ。僕はわき腹が痛くなってきた。クリスト、僕は家に帰りたい」
「わかりやした」と、クリストはうなずいた。「あっしの友だちんとこに寄ってから、戻りやしょう」
「誰にも会いたくないんだ」
「途中で、ちょっと顔を見せるだけでさ。遅れませんよ」
 支払いをすませ、クリストとイフチアンドルは、通りに出た。
 うなだれて息をあげたイフチアンドルは、クリストの後ろを歩き、白い家々・サボテン・オリーブ・桃の木のある庭園を通り過ぎた。
 クリストが案内したのは、港の一角にある弟のバルタザールの家だ。イフチアンドルは、海の湿った空気を深呼吸した。すぐさま服を脱ぎ捨てて、海に飛び込みたかった。
 クリストは「もうすぐでさ」と、用心深く連れを見ながら言った。彼らは線路を横切ると、「ここなんで」と、薄暗い小さな店に入っていった。
 イフチアンドルは、目が薄暗がりに慣れると、驚いてあたりを見回した。その店は、まるで海底の一角のようだったからだ。サンゴ・ヒトデ・海の魚の剥製・干されたカニ、そして奇妙な海の生き物が、天井から吊してあった。
 カウンターの上に置かれているガラスのケースには、真珠が並べられている。その一つは、真珠採りたちが『天使の肌』と呼んでいる、ピンクの真珠だ。イフチアンドルは、見慣れた物たちに囲まれて、いくぶん気分が落ち着いた。
「ここは静かで涼しいとこでさ。少し休んでくことにしやしょう」クリストは古い籐の椅子にイフチアンドルを座らせながら言った。そして「バルタザール! グッチエーレ!」と、店の奥に声をかけた。
「あんたか、クリスト?」と、別の部屋から声がした。「こっちへ来てくれ」
 クリストは腰をかがめて、小さな扉の中に入る。バルタザールの工房だ。ここでバルタザールは、湿気で輝きを失った真珠を、薄い酸性の溶液に漬けて、艶を出すのだ。クリストは後ろ手で、しっかりと扉を閉める。天井近くの小さな窓から入る薄明かりが、古くて黒ずんだ机の上の小瓶やガラスの小皿を照らしている。
「よう兄弟。グッチエーレはいないのかい?」
「アイロンを借りに、隣んちへ行った。レースのリボンが気になるんだとさ。すぐ戻るだろう」
「ズリタはどうした?」クリストは、焦ってたずねる。
「どっかへ行っちまった。クソッ。昨日ちょっと口げんかをしてな」
「グッチエーレのことでか?」
「前からズリタはグッチエーレに言い寄っててな。ズリタはグッチエーレの目の前で身をよじってたよ。だが答えはいっつも『だめ、だめ!』ばっかりだ。まったく頑固で気まぐれで、自分のことしか考えない。インディオの娘なら、誰だって望むことなのに、わかっちゃいないんだ。ズリタはやけ酒を飲んでるんだろうさ。ヤツは自分の帆船を、漁をする船を持ってるんだぞ」と、バルタザールは真珠を酸の溶液に浸しながら、ぶつぶつ言った。「どうすりゃいいってんだ? ところで、連れてきたのか?」
「そこに座っている」
 バルタザールは、好奇心に誘われるまま扉に近づいて、鍵穴から店をのぞき見ると「いないぞ」とささやいた。
「カウンターの椅子に座っているはずだ」
「いない。いるのはグッチエーレだけだ」
 バルタザールはすぐさま扉を開き、クリストと一緒に店に入った。イフチアンドルの姿はない。暗い隅に、バルタザールの養女である娘が立っていた。グッチエーレだ。
 彼女の美しさは、この港町をはるかに越えて知られていた。けれど彼女は恥ずかしがり屋で、強情だった。ほとんどの場合、彼女は美しいが毅然とした声で、「だめ!」と言った。
ペドロ・ズリタは、グッチエーレに惚れていた。彼は彼女と結婚したかった。そしてバルタザールは、帆船の所有者と親戚付き合いをしたかった。しかしズリタのいろいろな提案に対して、グッチエーレはいつも「だめ」ばっかりだ。
 父親とクリストが出てきたのを見て、グッチエーレはおじぎした。
「やぁ、グッチエーレ」と、クリストも挨拶を返す。
「若い男はどこだ?」と、バルタザールは質問した。
「お父さん。私、若い男なんて隠してないわよ」と、グッチエーレは微笑んだ。「私が店に入ると、彼はまるで恐れるみたいに私を見て、立ち上がって突然胸をつかんで逃げていったわ。私が振り返る間もなく、彼は飛び出していったの」
(探し人は彼女だったのか)と、クリストは思った。

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