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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2004.04.24 
2005.1.15
2020.06.05
2023.10 最終更新日

第十五章  ちょっとした仕返し

 バルタザールの真珠屋で、思いがけず青い目の娘に出会ったイフチアンドルは、とたんに店から飛び出し海まで逃げ出すほどうろたえた。もう一度彼女に会いたいと思いはするものの、どうしたら良いのかは、わからなかった。
 クリストに、もう一度連れていって欲しいと頼むことができれば簡単だ。けれどクリストの前で彼女に会いたくはなかった。
 イフチアンドルは、毎日初めて彼女に出会った海岸へと泳いで行き、朝から晩まで彼女に会いたいと願いながら、岩影に隠れていた。彼女を怖がらせないように、海岸に向かう途中で水中眼鏡と手袋を脱ぎ白い背広に着替もした。それは度々一昼夜におよんだ。夜は海に入って魚や牡蠣を食べ、まんじりともせずに朝を向かえて、そのままいつもの場所に戻っていく。
 ある晩、彼は真珠屋に行ってみた。店の扉は開いていたけれど、店先に年老いたインディオが座っているだけで、彼女はいなかった。
 イフチアンドルは、海岸へ引き返す。
 すると海岸の岩場に、淡く白いワンピースと麦藁帽子の彼女が立っていたのだ。
 イフチアンドルは、近づくこともできずに岩陰に立ち止まった。彼女は誰かを待っているようだった。ときどき通りを眺めながら、せっかちに行ったり来たりしている。彼女は、岩陰にいるイフチアンドルには、気づいていない。
 そして彼女は、誰かに手を振った。イフチアンドルがあたりを見回すと、背が高く肩幅の広い若い男が、足早に道を歩いて来るところだった。イフチアンドルが見たこともないほど、明るい色の髪と目をしていた。
 大男は彼女に近づき、大きな手を彼女に伸ばし、優しく呼びかけた。
「やあ、グッチエーレ!」
「こんにちは、オルセン!」と、彼女は答えた。
 オルセンと呼ばれた見知らぬ男が、グッチエーレの小さな手をしっかりと握ったとたん、イフチアンドルの中に怒りが込み上がってきた。そして同時に、もう少しで泣きそうになった。
「持ってきたのかい?」と、オルセンはグッチエーレの真珠のネックレスを見る。
 グッチエーレは、黙ってうなずいた。
「お父さんにバレないかい?」と、オルセンはたずねた。
「これは私の真珠だから、私の好きにするわ」
 それからグッチエーレとオルセンは、小声で話しながら、岩場の端の崖へと歩いて行く。それからグッチエーレは真珠のネックレスをはずし、その端を両手で持って高く掲げ、ネックレスを誉めそやした。
「見て。真珠に夕日が照り映えているわ。受け取って、オルセン……」
 オルセンが手を伸ばしたけれど、ネックレスは突然グッチエーレの手から滑り落ち、海に落ちた。
「なんてこと!」と、彼女は叫んだ。
 狼狽したオルセンとグッチエーレは、海を前に立ちすくむ。
「もしかしたら、拾えるかな?」と、オルセンが言った。
「ここはとっても深いのよ」とグッチエーレ。「なんて運が悪いんでしょう、オルセン!」
 イフチアンドルは、彼女がとても動揺しているのを見た。彼女が真珠を明るい髪の大男にあげようとしていたことも忘れてしまっていた。イフチアンドルは、彼女が嘆き悲しんでいることを無視できなかったので、しっかりとした足取りで岩陰から出て、グッチエーレに近づいた。
 オルセンは眉をひそめたが、グッチエーレは彼が先日店から飛び出して行った青年であることに気がついて驚き、そして好奇心と期待の眼差しを向けた。
「海に真珠のネックレスを落としたんでしょう?」と、イフチアンドルはたずねた。「お望みなら、僕が取ってきてあげます」
「一番の真珠採りの私の父にだって、ここで真珠を採ることはできなかったわ」と、彼女は即座に反対した。
「やってみますよ」そう控えめにイフチアンドルは答えると、服を着たままいきなり高い崖の上から波間に飛び込み、グッチエーレとその連れを驚かせた。
 オルセンは、あっけにとられた。
「彼は誰だい? どこから来たんだい?」
 そして一分たち、二分たったが、彼は戻ってこない。
 グッチエーレは波を見つめながらおののいた。
「死んでしまったんだわ」
 一方イフチアンドルは、自分が水の中で生きていけることを、彼女に知られたくなかった。けれど、捜索に霧中になって、時間の計算を誤り、真珠採りが潜っていられる以上の時間を少し越えてしまった。海面に出てきたイフチアンドルは、微笑みながらこう言った。
「もうちょっと待って下さい。このあたりの海底は岩の破片が多くて探しにくいんです。でも僕はきっと見つけますから」そして彼は、再び潜る。
グッチエーレは、真珠採りを何回も見たことがある。彼女は若者が約二分間も海の中にいたのに、息が乱れておらず、くたびれてもいないことに驚いた。
 二分後、イフチアンドルの頭が再び海面に現れた。彼は喜びに満ちた顔で、手を上げてネックレスを示して見せる。
「岩棚に引っ掛かっていました」
 彼の声は、まるで隣の部屋に行って来ただけのように、少しも乱れていない。
「もし真珠が岩の隙間に落ちていたら、もっと時間がかかったと思います」
 そしてイフチアンドルは急いで岩をよじ登り、グッチエーレにネックレスを差し出した。
 服から水が滴り落ちているが、気にしていない。
「どうぞ」
「ありがとう」と、グッチエーレは言い、そして好奇心をよみがえらせて彼をじっと見た。
 沈黙が降りた。
 三人とも、次にどうしたらいいのか、わからなかった。
 グッチエーレは、イフチアンドルの目の前で、ネックレスをオルセンに渡すのを、ためらっているようだった。
「あなたは彼に、真珠をあげたかったんでしょ?」と、イフチアンドルはオルセンを指差した。
 オルセンが赤くなり、グッチエーレは戸惑った。
「ええ、そうだったわ」
 オルセンは無言でネックレスを受け取り、それをポケットへと仕舞いこんだ。
 イフチアンドルは喜んだ。これはちょっとした仕返しなのだ。この大男はグッチエーレから真珠の贈り物を貰ったけれど、それはイフチアンドルのおかげなのだ。
 そしてイフチアンドルは彼女にお辞儀をすると、足早に道を歩いて立ち去った。しかし、愉快な気分はすぐに消えてしまった。あの金髪の大男が何者なのか、気になりだしたからだ。
(いったい金髪の大男は何者だろう? グッチエーレはどうしてネックレスをあげたのだろう? 崖の上で何を話していたのだろう?)
 その夜イフチアンドルは、波を切ってイルカを乗り回し暗闇の中で叫んだので、漁師たちは恐れおののいた。
その翌日、イフチアンドルは丸一日海で過ごした。水中眼鏡だけで手袋をつけずに、真珠貝を探して砂底を這った。夕方、彼がクリストの所へ帰ると、クリストは不機嫌そうに彼を非難した。
 翌朝イフチアンドルは服を着て、グッチエーレとオルセンが出会っていた岬に出かけ、岩陰でずっと待っていた。夕方、あのときと同じ夕暮れ時に、グッチエーレがやってきた。
 イフチアンドルは岩陰から離れて、彼女に近づく。
 彼を見たとたん、グッチエーレはまるで知り合いに会ったかのように微笑みながこう聞いた。
「私のあとをつけているの?」
「ええ」と、イフチアンドルは答えた。「初めて会ったときから」そして彼は少し言いよどみ、そして続けた。「あなたは……、オルセンにネックレスをあげていましたよね。でもあなたは真珠をあげるまえに、真珠を賞賛していました。真珠が好きなんですか?」
「ええ」
「じゃあ、僕の贈り物を受け取って……」そして彼は真珠を差し出した。
 グッチエーレは、真珠の価値をよく知っていた。イフチアンドルの手の中にある真珠は、これまでに見た物、彼女の父から聞いたどれよりも、素晴らしかった。その純白で完璧な形をした二百カラットを越える大粒の真珠は、おそらく百万ペソ以上の値打ちがあるはずだ。
 グッチエーレは驚き、そのとんでもない真珠を、そして目の前に立っている美しい青年を見た。強くてしなやかで健康だけれど、ちょっと内気で、皺だらけの白い背広を着た彼は、ブエノスアイレスの金持ちの息子のようには見えなかった。
 そして見知らぬ自分に、こんな贈り物をしようとしている。
「受け取ってください」イフチアンドルは繰り返した
「だめ」と、グッチエーレは首を振った。「あなたからそんなすごい贈り物は貰えないわ」
「これはそんなにすごい贈り物じゃありません」イフチアンドルは、一生懸命否定した。「こんな真珠、海の底には何千もあるんです」
 グッチエーレは微笑んだ。困惑したイフチアンドルは頬を染め、しばらく黙り込んでから付け加える。
「どうか、受け取って」
「だめ」
 イフチアンドルは、眉をひそめた。不機嫌な様子だった。
「自分のためにいらないなら、オルセンのためにどうぞ」と、彼は主張した。「それならいいでしょう」
「オルセンは自分のために欲しがったんじゃないわ」と、グッチエーレはきっぱりと言った。「あなたは何も知らないのよ」
「じゃあ、だめなんですね?」
「だめよ」
 イフチアンドルは真珠を海の彼方に投げ捨てると、うなだれて向きを変え道に向かって歩き出した。
 グッチエーレは肝を潰し、立ちすくんだ。百万もの価値がある富を、まるで小石のように投げ捨てるとは! 自分はそんなにも、この不思議な青年を悲観させたのだろうか?
「待って、どこへ行くの?」
 しかしイフチアンドルは、うつむいたまま歩き続ける。グッチエーレは彼に追いつき、彼の手を取ってその顔を覗き見た。若者の頬を涙が濡らしていた。
 彼は今まで泣いた事がなく、なぜあたりが水中眼鏡をしないで泳いでいるときのように、ぼやけて見えるのだろうと、不思議に思っていた。
「許してね。傷つけるつもりはなかったの」
 彼女は彼の両手を取って、そう言った。

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