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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2005.1.15
2023.10 最終更新日

第十八章  タコとの戦い

 海に飛び込んだイフチアンドルは、地上の嫌な事を、ひととき忘れた。
 息がつまりそうな地上の暑苦しさの後では、冷たい水が心を落ち着かせ、気分を一新させてくれる。刺すような痛みも止まった。大きく深呼吸する。彼には充分な休息が必要だったので、地上で起きたことを考えないようにした。
 イフチアンドルは、何か身体を動かす仕事をしたかった。何をしたらいいだろう? たとえば暗い夜に高い崖から海に飛び込んで、海の底に手が付くほど深く潜るのは好きだ。だけど今は真昼間で、海の上では漁船の暗い影が揺れている。
(そうだ。洞窟を片付けよう)と、イフチアンドルは考えた。
 入り江の垂直な崖の傾斜に、入り口が大きなアーチになっている洞窟がある。そこからは、海の深みへと下る水中平原の美しい景色を眺めることができる。
 イフチアンドルは、ずっと前からそこに目は付けていた。けれど、その洞窟を使うなら、沢山のタコの家族を立ち退かせる必要があった。
 イフチアンドルは水中眼鏡をかけ、反り返った長くて鋭いナイフを手に、大胆に洞窟まで泳いでいった。けれど、洞窟に入るのは少し怖かったので、イフチアンドルは、敵をおびき出すことにした。
 彼は、沈没したボートの近くに柄の長い銛が落ちていたことを思い出し、それを持って戻り、洞窟の入り口に陣取ると中に向けて突き始めた。
 侵入して来たわけのわからない物に引っ掻き回され、タコが怒り出す。長い触手が、アーチの端に現れる。タコは用心しながら銛の穂先に近づいた。
 イフチアンドルはタコの触手が銛を掴む前に引き戻した。
 このゲームは数分続いた。やがてゴルゴン・メデューサの髪の毛のような数十本の触手が、アーチの端でのたうち始める。
 ついに、年老いた巨大なタコが我慢できなくなり、生意気な新参者の侵入者を懲らしめようと這い出してきた。タコは隙間から這いだし、触手で威嚇してくる。タコはイフチアンドルの前に泳ぎだし、体色を変化させて脅そうとする。
 イフチアンドルは脇へ回り、銛を手放して身構えた。八本の長い足の敵と戦うとき、人間の二本の両腕で対抗するのは難しいことを知っていた。タコの足を一本切り落とそうとしている間に、他の七本が絡んできて、それを許しはしないだろう。
 そこで彼は、ナイフでタコの胴体を突くことにした。触手の先端が届くほど怪物に接近する、イフチアンドルは突如そのうごめく触手の中心にある、タコの頭に向かって突進した。
 このやり方は、いつもタコの不意を突くことができる。
 タコが触手の端を敵に巻き付けるまでには、少なくとも四秒かかった。
 その間にイフチアンドルは、素早く正確な一撃でタコの身体を引き裂き、心臓を突き、運動神経を切断することに成功した。すでにイフチアンドルの身体に巻き付いていた巨大な触手が、突如生気を失ってぐったりとたるみ、落ちていった。
「これで一匹片付いた!」
 イフチアンドルは、再び銛を手に取った。
 今度は二匹のタコがイフチアンドルに向かって泳ぎ出してきた。一匹はイフチアンドルにまっすぐ襲いかろうとし、もう一匹は回り込んで後ろから襲いかかろうとした。
 危なくなってきた。
 イフチアンドルは正面のタコに果敢に攻撃を仕掛けたが、その間に後ろにいたタコが彼の首に触手を巻き付けてくる。イフチアンドルは首に絡んだタコの足を素早く切り落とし、ナイフでタコの首を突き刺した。そして後ろに向き直り、残る触手を切り落とす。切られたタコは、ゆっくりと海底に沈んでいく。そのときイフチアンドルは、すでに正面のタコにとりかり、これもやっつけた。
「これで三匹」と、イフチアンドルは数え上げる。
 けれど戦いは、中断せざるを得なかった。洞窟からタコの大群が泳ぎだしてきたけれど、タコの血で水が濁ったからだ。
 その茶色い暗闇では、イフチアンドルの視界は閉ざされる。
 けれどタコは、手探りで簡単に彼を見つけてしまう。
 彼は泳いで水の澄んだ所まで退避する。そして、血の雲から泳ぎ出てきたタコを一匹退治した。
 戦いは、断続的に数時間続いた。
 イフチアンドルは、ついに最後のタコを退治した。水が澄むと、海底にタコの死骸と切り刻まれたまま動く触手が落ちているのを見た。
 それからイフチアンドルは、洞窟に入った。中にはまだ、頭が握りこぶしぐらいで触手が指ぐらいの太さしかない、小さなタコが何匹か残っていた。彼はそれも殺すつもりだったけれど、不意に可哀想になった。
(飼い慣らして、洞窟の番人にするのもいいな)
 大きなタコを片付けたイフチアンドルは、水中の家に家具を置くことにした。
 彼は家から四本の鉄の足がついた大理石のテーブルと、中国の花瓶を二つ持ってきた。彼は洞窟の中央にテーブルを置き、その上に花瓶を置いた。花瓶には土を注ぎ、海の花を植えた。水と混じった土は少しばかり煙のように立ち上り、あたりが濁ったが、水はすぐにきれいになった。わずかな水の揺らぎに揺れる花だけが、まるで風に吹かれたかのように、静かに揺れている。
 洞窟の壁からは、自然が作り出した石のベンチが突き出していたので、洞窟の新たな主は喜んで体を横たえた。石だけれど、水の中では何も身体に感じない。
 テーブルの上に中国製の花瓶が置かれた、奇妙な水中の部屋だった。
 見たこともない部屋の新築祝いのパーティーを見に、好奇心旺盛な魚たちが、たくさんやってきた。魚たちはテーブルの脚の間や、花瓶の花の香りを嗅ぐかのように泳ぎ、イフチアンドルの頭の周りに群れなした。
 マハゼは、入り口までやってきたけれど、怯えて尾を振り泳ぎ去っていく。大きなカニは、白い砂の上を這ってきて、部屋の主に挨拶をするかのようにハサミを振り、テーブルの下に収まった。
 イフチアンドルは、部屋を飾ることが面白くなってきた。(他にどうやって部屋を飾ろうか?)と、イフチアンドルは考えた。(入り口あたりに綺麗な海藻を植え、床に真珠を敷き詰め、壁には貝殻を飾ってみよう。もしグッチエーレがこの部屋を見たら……。でも、彼女は僕を騙したんだ。いいや、たぶん、彼女は僕を騙してはいない。彼女はオルセンのことを僕に説明する暇がなかっただけなんだ)イフチアンドルは、眉をひそめた。
 仕事がなくなったとたんに、再び他人とは違うことによる孤独を感じた。(なぜ誰も、僕みたいに水の中では生きていけないんだろう? 僕は一人だ。父さん、早く帰ってくるといいのに! そしたら聞けるのに……)
 彼は、少なくとも一匹の生き物に、新しい水中の部屋を見せたいと考えた。
(リーディング)
 イフチアンドルは、イルカのことを思い出した。イフチアンドルは、海の上に出て手にした法螺貝を吹き鳴らす。すぐに、いつもの鼻息が聞こえてきた。イルカはいつも入り江の近くにいた。
 泳いで来たリーディングを、イフチアンドルは優しく抱きしめる。
「おいでリーディング。僕の新しい部屋を見せてあげるよ。君はテーブルや中国の花瓶なんて、見たことないだろ」
 そしてイフチアンドルはイルカを従え海に潜った。
 けれどすぐに、イルカは非常に落ち着きのないお客であることがわかった。
 大きくて不器用なイルカは、テーブルの花瓶をよろめかせるほど、大騒ぎした。さらにテーブルの脚に頭をひっかけて引っくり返したので、花瓶が転げ落ちてしまった。普通なら花瓶は地面に落ちて粉々になってしまっただろうが、海の中では驚いたカニが岩に向かって横走りしただけでですんでしまう。
(なんて不器用なんだ!)
 イフチアンドルは、友人のことを考えて、テーブルを洞窟の奥に押し込み、花瓶を持ち上げた。
 イフチアンドルはリーディングを抱きしめる。
「ここにいてよ、リーディング」
 けれど間もなく、リーディングは頭をふって不安を表した。イルカは水中に長くとどまることができないのだ。彼には空気が必要だ。イルカはヒレをうち振って洞窟から泳ぎ出し水面へと浮上していく。
(リーディングでさえ、水中で一緒に暮らすことはできないんだ)と、一人残されたイフチアンドルは悲しくなった。(いるのは馬鹿で怖がりの魚たちだけだ……)
 彼は、石のベッドに身を投げ出した。
 陽が沈んだ。
 洞窟の中も暗くなる。
 わずかな水の動きが、イフチアンドルを揺さぶった。
 日中の興奮と仕事によって疲れていたイフチアンドルは、眠りに落ちていった。

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