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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2005.1.15
2020.06.05
2023.10 最終更新日

第二十章  旅路

 イフチアンドルは、急いで出発の準備をした。海岸に隠しておいた背広と靴を、ナイフのベルトで縛って背負い、水中眼鏡と手袋を身につける。
 リオ・デ・ラ・プラタ湾には、外洋汽船・帆船・ランチ船がたくさんいて、小型の蒸気タグボートが、その間を動き回っている。その船底を水中から見ると、あちこち動き回るミズスマシのように見えた。錨に結ばれた鎖やロープが、まるで海の中の林の細い木の幹のように、海底から立ち上がっている。
 湾の底は、あらゆる種類のゴミであふれていた。鉄屑・こぼれた石炭・廃棄された鉱滓の山・古いホースの破片、破れた帆・缶、レンガ、割れたビン、ドラム缶・そして海岸近くには犬や猫の死骸まであった。
 そして海面は油膜で覆われている。日はまだ高かったけれど、あたりは緑がかった灰色の薄闇に覆われていた。流れ込むパラナ川が、砂と汚泥を運んでくるのだ。
 イフチアンドルは、この河口の迷路で迷いそうになったが、この川の緩やかな流れが、羅針盤の役目を果たしてくれた。
(まったく、人間ってびっくりするほどだらしないなぁ)
 彼は目の前のゴミ捨て場のような海底にうんざりしながら、海底を泳いでいった。彼は湾の真ん中の、船の竜骨の下を泳いでいった。湾の汚れた水は、まるで密室に閉じ込められた時のように息苦しい。
 水底では、骨になった動物と、そしていくつかの人間の骸骨を見つけた。その一つは頭蓋骨が割られていて、首には石のついたロープが巻きつけられていた。誰かが犯罪の証拠を隠滅したのだ。イフチアンドルは、このぞっとする場所から逃れようと急いだ。
 けれど、湾の奥に行くほど逆流が強くなり、泳ぐのが難しくなっていく。海にも海流があったけれど、イフチアンドルは海流をよく知っていて、彼は帆船の船乗りのように、利用することができた。けれどここには、逆流が一つあるきりだ。イフチアンドルは水泳が得意だったけれど、なかなか前進できないことに、イライラしていた。
 突然上から何かが飛び込んできて、彼をかすめて落ちていった。船が錨を下ろしたのだ。(ここを泳いで行くのは危険だ)と、イフチアンドルは考えて、あたりを見回す。大きな汽船がやってくる。彼はその船の下に潜り、船の底が通り過ぎようとしたとき、フジツボに覆われてデコボコした船の竜骨を捕まえた。この姿勢で水中に横たわるのは、あまり快適ではないけれど、汽船に運ばれれば、身を隠したまま素早く移動できる。
 デルタ地帯が終わり、汽船はパラナ川を登りはじめた。川の水は泥だらけで、イフチアンドルは淡水の中で息がつまり、腕の感覚もなくなってきた。けれど、彼は汽船から手を離そうとは思わなかった。
(リーディングがいてくれたら!)
 彼はイルカのことを思い出した。けれど川に入り込んだイルカは、人間に殺されるかもしれない。それにイルカは、水に潜ったままではいられない。イフチアンドルは、流れの強い川面に出る事を恐れていた。
 腕はさらに痺れ、それにイフチアンドルは朝から何も食べていなかった。もう休まないといけない。竜骨から手を離し川底へと降りる。
 深まる夕闇の中で泥だらけの川底を見回す。けれど、平たいヒラメも牡蠣の殻も、見つかりはしない。近を淡水魚が泳いでいた。けれど彼は川魚の習性を知らなかったし、海魚よりずっと賢いらしく、まるで捕まえることができなかった。夜になって魚が眠りに落ちた後で、イフチアンドルはなんとか大きなカワカマスを捕まえることができた。空腹のあまり硬くて泥臭い肉どころか、骨の欠片さえ残さず飲み込んだ。
 眠らないといけない。少なくともこの川ならサメやタコの心配をせずに、静かに眠ることができそうだ。けれど眠っている間に下流に流されないようにする必要がある。
 イフチアンドルは川底で石がいくつかある場所を見つけ、その窪みに入り込み、石の一つを掴んで身を落ち着かせる。
 しかし充分眠ないうちに、汽船が近づいてくる気配に気づいて目覚め、信号灯の明かりを見つけた。船が下流からやってくる。彼は急いで浮上し、船に掴まる準備をした。しかしその船は、底が完全に滑らかなモーターボートだったので、底につかまることができず、あやうくスクリューに巻き込まれそうになった。
 それから下流に向かう数隻の汽船を見送った後で、上流に向かう汽船につかまった。
 こうしてイフチアンドルは、パラナの町に到着し、彼の旅の最初の部分が終わった。しかし陸の旅はもっと難しかった。
 朝の早いうちに、イフチアンドルは泳いで騒々しい町の港を離れ、慎重に岸を観察して、人がいない場所を選んで岸に這い上がった。はずした水中眼鏡と手袋を岸辺の砂に埋め、背広を日に当てて乾かすと、それを着た。
 皺だらけの背広を着たイフチアンドルは、まるで浮浪者のように見えた。けれど、彼は自分がどう見えるかなど意識したことがなかった。
 イフチアンドルはオルセンに聞いた通り、岸の右側にそって進み、歩いていた漁師にペドロ・ズリタのドロレス農園はどこかと質問した。しかし漁師は、疑いの眼差しで彼を見て、否定的に頭を横に振っただけだった。
時間が経つにつれ暑さは増し、手がかりは見つからなかった。イフチアンドルは、見知らぬ場所で、道を見つける方法を、まったく知らなかった。その上暑さで頭が鈍り、めまいがして、物を考えられなくなってきた。
イフチアンドルは、元気を取り戻すために、何度も服を脱ぎ、水に飛び込んだ。
 ついに午後も四時を回るころ、年老いたお喋りな農夫らしき人に出会うことができた。農夫はイフチアンドルの話を聞くとうなずいて、こう話してくれた。
「まずこの道を真っ直ぐ行って、野原を横切る。すると大きな池があるから橋を渡り小さな丘を登る。そこに口髭のドナ・ドロレスがいる」
「なぜ口髭なんですか? ドロレスは農園ですよね?」
「そう農園だ。そして口髭ってのは、農園のドロレス婆さんのことさ。ペドロ・ズリタの母親のな。本当に婆さんには、口髭があるんだ。雇ってもらおうと思ってるんなら、やめた方がいいぞ。生きたまま喰われちまう。ありゃ本物の魔女だ。ズリタが若い妻を連れてきたという話だが、あの義理の母親と一緒に暮らしたら、生きて帰れないだろうな」
(グッチエーレのことだ)と、イフチアンドルは思った。
「まだ遠いんですか?」と、彼は質問した。
 農夫は太陽を見た。
「夕方までには着けるさ」
 イフチアンドルは農夫に礼を言って、小麦畑やトウモロコシ畑を通り過ぎ、道を急いだ。が、あまり急いだために、すぐに疲れてしまった。道は無限に続く白いリボンのようで、小麦畑はやがて草のよく茂った牧草地になり、羊の群れがその牧草を食べている。
 イフチアンドルは疲れきった。わき腹が切り裂かれるような痛みを感じた。喉が渇いたけれど、あたりに水はない。
(せめて池に急ごう!)と、イフチアンドルは思った。
 すでに彼の頬と目はこけ、息が荒くなった。何か食べたかった。けれど、いったいここで何が食べられるというのだろう? 
 はるか向こうの草原では、牧夫と犬に守られたヒツジの群れが草を食んでいる。石垣の向こうには、熟したモモとオレンジが実っている。
 けれど、ここは海と違い、すべてが違っている。なにもかもが誰かの所有物で、細かくわけられ、柵で囲まれ、見張られていた。誰の物でもないのは、自由に飛び回り頭上でさえずる鳥だけだ。
(鳥は、捕まえられないだろうか? いや、鳥も誰かのものだろう。ここでは、この豊かな果樹園とヒツジの群れの中で、簡単に飢えて渇いて死ぬことができそうだ)
 その時、金ボタンがついた白いチュニックを着て、白いピーク帽をかぶり、ベルトに銃をぶら下げた太った男が、両手を後ろに組んで歩いてきた。
「ドロレス農園は、まだ遠いですか?」と、イフチアンドルは質問した。
 太った男はイフチアンドルを疑いの目で見た。
「何しに行くんだね? どこから来たんだね?」
「ブエノスアイレスから……」
 白い上着の男は、ますます疑わしそうに睨みつけたので、「そこに、会いたい人がいるんです」と、イフチアンドルはつけ加えた。
「手を前に出しなさい」
 イフチアンドルは、太った男の言葉に驚いたが、疑いはせず手を出した。すると男は、ポケットから手錠を取り出して、あっというまにイフチアンドルの手に掛けてしまった。
「捕まえたぞ」と、金ボタンの男はつぶやき、イフチアンドルの脇腹をぐいと押すと、大声で言った。
「行け! ドロレス農園に連れていってやる」
「なぜ僕の手を拘束するんです?」
 イフチアンドルは、当惑して尋ね、手を上げて手錠をまじまじと見た。
「話すことなどない! さっさと行け!」と、太った男は怒鳴った。
 イフチアンドルは、しばらく首をかしげてから、とぼとぼ歩き出した。
 とりあえず、後戻りするわけではなさそうだ。彼は自分に何が起きているのか、よくわかっていなかった。
 実は、昨夜近くの農場で強盗殺人事件があり、警察がその犯人を捜していたのだ。
 イフチアンドルは、しわくちゃの背広を着ている自分が怪しく見えることにも、気づいていなかったし、旅の目的についての彼の曖昧な返事は、警官の疑いを決定的なものにしてしまった。
 警官は、逮捕したイフチアンドルを刑務所のあるパラナに送るために、近くの村へ連れて行くつもりだった。
 けれどイフチアンドルにわかったのは、行動の自由が奪わたことと、旅が遅れ始めた、ということだけだ。
 彼は、最初のチャンスが訪れたら、どんな代償を支払うことになろうとも、自由を取り戻そうと心に決めた。
 太った警官は、うまくいったことに満足した様子で長い葉巻を吸い始めた。
 煙は後ろになびいて、すぐ後ろを歩いているイフチアンドルを直撃し、彼はひどくむせ始めた。
「僕を煙から開放してください。息が苦しいんです」と、彼は煙に包まれて頼み込むと、警官が振り向いた。
「なんだと? 俺にタバコを吸うなと言うのか? はっはっは!」彼は、顔を皺だらけにして彼を嘲笑し、「お優しいことだ!」と、イフチアンドルの顔に煙を吹きかけ、「行け!」と、どなっただけだった。
 イフチアンドルは従うしかなかった。
 ついに、池にかかった狭い橋が見えてきた。イフチアンドルは、思わず足を速めた。
「お前のドロレス農園に急ぐこたないぞ!」と、太った警官は叫ぶ。
 二人は橋を渡っていたが、橋の中ほどに達すると、イフチアンドルは突然欄干を乗り越え、そのまま池に飛び込んだ。
 警官は、手錠を掛けられている者が、そんなことをするとは思っていなかった。
 が、イフチアンドルも、太った男が次に何をするのか、予測できなかった。警官は、イフチアンドルを追って、水に飛び込んだのだ。警官は、犯人が溺れ死ぬことを恐れたのだ。犯人は生け捕りにして刑務所に送りたかったし、手錠をしたままの犯人が溺れ死んだら、責任を問われて面倒を背負い込むことになる。即座に行動した警官は、イフチアンドルの髪を掴むことに成功し、離すものかと頑張った。
 そしてイフチアンドルも、髪が引きちぎられてもかまうものかとばかりに、警官を引きずったまま底へと潜った。
 間もなくイフチアンドルは、髪から手が離されたことを感じ、そのまま泳いで警官から数メートルばかり離れると、追っ手の様子を見ようと海面に出た。
 警官はもがきながら池から上がっていたが、イフチアンドルの頭を見て叫んだ。
「悪党め、溺れちまうぞ! こっちへ泳いでこい!」
(なるほど、それはいい考えだ)
 そしてイフチアンドルは、いきなり叫んだ。
「助けて! 溺れてしまう……」そして再び底へと潜ると、水に潜って自分を探す警官の様子を見守った。警官があきらめた様子で岸に向かうと、(今にいなくなるだろう)と、イフチアンドルは考えた。
 しかし警官は、捜査官が到着するまで、遺体のそばで待とうと決めたのだ。当人が池の底に隠れ続けても、問題は解決しないらしい。
 そのとき、袋を積んだラバを連れた農民が橋を渡ってやってきた。警官は農民の袋を取り上げて、一番近くの警察署に応援を頼む手紙を持って行くよう命令した。
 事態は、イフチアンドルにとって、どんどん悪くなっていく。おまけに池には、ヒルまでいた。ヒルはイフチアンドルに群がり体に吸い付いてきたけれど、彼にはそれを身体から引き剥がす時間がなかった。警官の注意を引かないよう水を乱さずヒルを取るには、細心の注意が必要だからだ。
 三十分ほどすると、農民が戻って来て、道路の向こうの方に手を振り回すと、袋をラバの背に乗せて、急いで行ってしまった。
 それから五分もすると、池の岸に三人の警官が到着した。そのうち二人は、頭の上に軽いボートを担ぎ、三人目がオールと鍵竿を持っている。
 警官たちは池にボートを下ろすと、溺れた男を捜し始めた。イフチアンドルには、この程度の探査は平気だった。ボートが近づいてきたら少しばかり移動するだけで、まるで遊んでいるようなものだ。
 警官たちは鍵竿で、橋近くから池全体を注意深く探したが、遺体は見つからない。イフチアンドルを逮捕した警官は、両手を上げて困惑を表し、イフチアンドルはそれを面白がっていた。
 ただまもなく、必然的に状況が悪化した。
 警官たちが鍵竿で池の底を引っ掻き回したために、池がかき混ぜられて、泥が底から舞い上がってしまったのだ。もはやイフチアンドルには、伸ばした自分の手すら見えなくなってしまった。それはそれで危険ではあったけれど、真の危険は、酸素の少ない池の中で、エラ呼吸ができなくなってきたことだ。
 イフチアンドルは窒息し、エラ全体が焼かれるような痛みを感じた。もうこれ以上我慢することなど、できはしない。思わずうめき声が出て、口から泡がいくつか飛び出した。どうするべきか? 他に池から出る方法はなかった。
 とはいえ、たとえどんなに危険であっても、イフチアンドルは池から出なければならなかった。しかし池から上がれば、警官たちはイフチアンドルを捕らえ、殴り、刑務所に送るだろう。
 しかし、たとえそうだとしても、もう選択の余地はない。
 イフチアンドルは、どうしようもなくなって、ふらふらと浅瀬に歩いて行き、水面に頭を出した。
「ああ、ああ、ああ!」警官は、言葉にならない叫びを上げ、おそらく岸に向かって泳ごうとして、ボートから池に飛び込んだ。
「イエス様・マリア様! あぁ!」もう一人の警官は叫び、ボートの底に突っ伏している。
 岸に残っていた二人の警官は、真っ青になって震えながら小声で祈り、恐怖から逃れるために互いの後ろに隠れようとしている。
 イフチアンドルには、わけがわからなかった。こうなるとは思ってもいなかったし、どうして怖がっているのかも、すぐにはわからなかった。
 そしてやっと、スペイン人は迷信的で信心深いことを思い出した。おそらく警官たちは、あの世から幽鬼が現れたと思ったのに違いない。
 イフチアンドルは、もっと彼らを驚かせてやろうと、歯を剥き出し、目をぎょろつかせ、大声で呻きながら、ゆっくりと岸に向かった。そしてわざと大またで歩いて岸を離れ道に向かい、その場から立ち去った。
 イフチアンドルを捕まえようとする警官は、一人もいなかった。迷信からくる恐怖と、幽鬼に対する恐怖が、職務の遂行を妨げたのだ。

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