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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2005.1.15
2020.06.05
2023.10 最終更新日

第二十五章 沈没船

 ズリタを追って来た者たちは、今朝メドゥーサ号で何が起きていたのか、知らなかった。
 実は昨夜から朝まで船員たちは話し合い、隙をついてズリタを殺し、イフチアンドルと帆船を自分たちの物にしようと決めたのだ。
 早朝ズリタは、艦橋に立っていた。メドゥーサ号は、ここ何時間かおおむね三ノットのスピードで、ゆっくりと進んでいた。彼は双眼鏡で海を見渡し、沈没船の目印となる無線マストを発見した。まもなく海面に浮かんでいる救命浮き輪を発見した。浮き輪にはマファルダ号と、書かれていた。
(マファルダ号が沈没したのか?)ズリタは驚いた。彼は、このアメリカの大きな郵便客汽船を知っていた。この汽船なら、たくさん値の張る物を積んでいたに違いない。
(もしイフチアンドルに、金目のものを取りに沈没船にやったとしたら? 鎖の長さは充分足りるだろうか? まず無理だ……。しかし鎖なしでイフチアンドルを行かせたら、あいつは戻ってくるはずがない……)
 ズリタの心の中で、イフチアンドルを失う危険性と、目の前のお宝に対する欲が、せめぎあった。
 メドゥーサ号が、ゆっくりと海面に出たマストに接近すると、船員たちは前方の船縁に集まった。
 風がぱたりと止んで、メドゥーサ号が停止する。
「おいらは以前、マフィルダ号で働いたことがあるけど」と、船員の一人が話している。「大きくていい汽船だったよ。町中の金持ちのアメリカ人が、このマフィルダ号に乗りにやってきたもんだ」
(無線で連絡する間もなく沈没したのは明らかだ)と、ズリタは考えていた。(たぶん無線機が壊れたに違いない。でなけりゃ今頃このあたりは、周囲の全ての港から高速船・グライダー・ヨットが急いでやってきて、政府の関係者・特派員・カメラマン・映画技師・ジャーナリスト・潜水艦乗務員で、いっぱいになっているはずだ。ぐずぐずしていられない。鎖なしでイフチアンドルを放すのは危険だが、そうする以外方法はない。しかし、間違いなく戻って来させるには、どうすりゃいい? マファルダ号の財宝は手に入れなきゃならん。イフチアンドルが俺の手にある限り、真珠は消えたりしない。イフチアンドル無しでは、誰もそれを見つけられん、。だがマフィルダ号のお宝は、数日か、あるいは数時間で、手が出せなくなっちまう。よし、マフィルダ号が先だ)
 ズリタは決心し、錨を下ろすように命令すると、船長室で短い手紙を書き、それを持ってイフチアンドルの船室に向かった。
「イフチアンドル、お前は字を読めるか? グッチエーレがお前に書いた手紙を持って来たぞ」
 イフチアンドルは、すぐにメモを手に取り、手紙を読んだ。
『イフチアンドル! 私の願いを聞いてください。メドゥーサ号の近くに、汽船が沈没しています。海に潜って、その船から貴重品を全部持ってきてください。ズリタは鎖なしであなたを行かせるでしょうが、メドゥーサ号に、必ず戻ってきてください。私のために、そうしてください。イフチアンドル。そうすればあなたは自由になれます。
 グッチエーレより』
 イフチアンドルは、グッチエーレから手紙を貰ったことがなかったので、彼女の筆跡を知らなかった。彼は手紙をもらったことが嬉しかったけれど、すぐに考えた。
(ズリタが騙してるんじゃないだろうか?)
 イフチアンドルは、手紙を指した。
「なぜグッチエーレは、僕に直接言わないんですか?」
「体調が悪いんだよ」と、ズリタは答えた。「だが、お前が戻る頃には、会えるだろうさ」
「なぜグッチエーレが、貴重品を欲しがるんですか?」と、イフチアンドルは疑った。
「もしお前が人間ってやつを知っていりゃ、そんな質問はしないだろうな。美しいドレスを着て、高価な宝石を身につけたいと思わない女がどこにいる? しかしそれには、金が必要なんだ。そして沈没船には、大金が眠っている。それは今、誰の物でもない。ならなんでお前が、グッチエーレのために、それを取って来ちゃいかん訳がある? 大事なのは、金貨を見つけることだ。郵便局の皮製のかばんに入っているに違いない。それに乗客も、金の指輪をしているだろう……」
「あなたは僕に、死体を漁れって言うんですか?」と、イフチアンドルは憤慨した。「あなたは信用できません。グッチエーレは、そんな欲張りじゃありません。彼女が僕に、そんなことを頼むはずあり……」
「くそったれ!」と、ズリタが叫んだ。今イフチアンドルを騙すことができないなら、計画は失敗したも同然だ。
 ズリタは自分を落ち着かせ、愛想笑いをしながらこう言った。
「わかった。お前を騙すことはできないようだ。お前には正直に話すから、よく聞いてくれ。グッチエーレはマフィルダ号の財宝など欲しがってない。欲しいのは俺だ。これならお前は信じるか?」
 イフチアンドルは、思わず微笑んだ。
「もちろんです!」
「そりゃあいい! お前は俺を信じた。これで話し合えるってわけだ。そう。金が欲しい。そしてもし、お前の真珠と同じと同じぐらいの財宝がマフィルダ号にあるなら、お前がそれを俺のために手に入れてくれれば、俺はお前を海に放してやろうと考えた。しかし、問題がある。お前は俺を信用していないし、俺もお前を信用できない。俺は、鎖をつけずにお前を海にやったら、潜ったまま戻ってこんだろうと恐れている……」
「戻ると約束したなら、僕は守ります」
「まだ、わからないからな。俺はお前を信用していない。お前が約束を守らなくても、俺は驚かない。だが、お前はグッチエーレを愛している。彼女がお前に求めるなら、お前はなんでもする。だろう? そこで俺は彼女と取引をした。もちろん彼女は俺に、お前を自由にして欲しいと要求した。そこで彼女は、お前を自由にするために、手紙を書いて俺に渡したんだ。納得したか?」
 まことしやかなズリタの話は、イフチアンドルには何から何まで、もっともらしく思われた。ただ、イフチアンドルが、見落としたことがある。どんなにマフィルダ号に金があったとしても、その財宝が真珠より価値があったら彼を放すといっても、その評価をするのはズリタだということだ。
(比べるためには)と、ズリタは考えた。(イフチアンドルは真珠も持ってこなければならなくなる。しかしその時俺は、マフィルダ号の金と、真珠と、そしてイフチアンドルを手に入れるんだ)
 しかしイフチアンドルは、ズリタがそんなことを考えているとは、思ってもいなかった。
 彼は考え、ズリタの率直さに納得し同意した。
 ズリタは安堵のため息をついた。
(こいつは俺を、騙しちゃいない)と、彼は考えた。
「早く行こう」イフチアンドルは急いで甲板に上がり、海に飛び込んだ。
 船員たちは、鎖無しで海に飛び込んだイフチアンドルを見て、ズリタが彼にマフィルダ号の財宝を取りに行かせたのだと、すぐにわかった。何から何までズリタが独り占めするのか? そうであってたまるものか。そして彼らは、ズリタを急襲したのである。
 船員たちがズリタを襲っている時、イフチアンドルは沈没船を調べ始めていた。
 上甲板から大きなハッチを通り、イフチアンドルは下へと泳いだ。それは大きな家の階段のようで、広い通路に通じていた。そこはかなり暗く、ただ開いた扉から差す薄明かりだけが、あたりを照らしている。
 イフチアンドルは、その開きっぱなしの扉の一つに泳いで入ると、大広間だった。大きな丸窓から差す光が、一度に数百人が入れる巨大なホールを、ぼんやりと照らしている。イフチアンドルは、豪華なシャンデリアに座って、あたりを見回した。
 それは奇妙な光景だった。
 木の椅子と小さなテーブルは浮かび上がり、天井で揺れていた。蓋の開いたグランドピアノが、立ち上がっていた。床は、柔らかな絨毯に覆われていた。ニスで塗装されたマホガニーの壁は歪んでいた。一方の壁ぎわに椰子が集まっていた。
 イフチアンドルはシャンデリアから離れて、椰子に向かう。
 突然彼は驚いて止まった。誰かが彼の方に泳ぎ、彼の動きを真似ている。
(なんだ、鏡か)
 その大きな鏡は、薄暗い水の広間の壁の一方を占領し、内部の装飾を全て映していた。
 見たところ、ここに宝物はなさそうだ。
 イフチアンドルは大広間から出て、デッキを一つ降りる。そこも上とよく似た豪華な場所で、レストランのようだ。ビュッフェのレジやカウンターとそのあたりの床には、ワインのビンと食料の缶詰や箱が、かたまっていた。
 水圧によって、大半のビンの栓は中に打ち込まれ、ブリキの箱は潰れている。
 テーブルの上に、食器が並べられている。けれどいくつかの皿や、銀のフォークやナイフは、床に散乱していた。
 それからいくつかの、アメリカの快適さの象徴のような船室を見て回った。けれども、そこに死体は一つもない。第三デッキの部屋で一度、膨張した死体が天井付近で揺れているのを見ただけだ。
(たぶん、みんなボートで逃げ出したんだな)
 けれど、さらに下のデッキにある三等室に降りると、彼はひどい光景を目の当たりにした。
 船室には、男も、女も、子どもたちも残っていた。
 白人も、中国人も、黒人も、インディオもいた。
 船員たちは、ファーストクラスの金持ちたちをまず避難させ、他の者を運命の手にゆだねたのだ。
 いくつかの部屋の出入り口は死体で塞がれ、イフチアンドルは入ることができなかった。
 人々はパニックを起こして出入り口に殺到し、お互いを押しのけ合い、最後の望みを絶ったのだ。
 長い通路を人々がゆっくりと漂っていた。
 開いた丸窓から流れ込む水が、膨れ上がった死体をふらふらと揺らしている。イフチアンドルはぞっとして、この水中の共同墓地から急いで泳ぎ去った。
(グッチエーレは、僕をこんな所に来させると、知っていたのだろうか?)と、イフチアンドルは考えた。(彼女は本当に、僕に死んだ男のズボンのポケットを漁らせたり、スーツケースを開けさせたりしようとしたんだろうか? いいや、彼女がそんなことをさせるはずがない!)イフチアンドルは決心した。(戻ろう。そしてグッチエーレを甲板に呼び出そう。そして彼女の意思を確かめるんだ)
 まるで魚のように、いくつもの甲板を通り過ぎ、そして海面に出ると急いでメドゥーサ号に近づいた。
「ズリタ!」彼は呼んだ。「グッチエーレ!」
 しかし誰もそれに応えない。メドゥーサ号は沈黙したまま、波に揺れている。
(みんなどこへいったんだろう?)と、彼は思った。(これもズリタの策略だろうか?)
 イフチアンドルは、慎重に船まで泳ぎ、そして甲板に登り、再び叫ぶ。
「グッチエーレ!」
「俺たちはここだ!」
 海岸から、ズリタの声が微かに聞こえてきた。見ると、海岸の茂みから、ズリタがこちらをうかがっている。
「グッチエーレが急病だ! イフチアンドル! こっちへ来い!」と、ズリタが叫んだ。
 グッチエーレが病気! 彼は彼女に会おうと海に飛び込み、岸に向かった。そして海から上がろうとした時、くぐもったグッチエーレの声を聞いた。
「嘘よ! 逃げてイフチアンドル!」
 彼は即座に向きを変え海に潜り、そしてそのまま泳いで海岸から充分はなれてから、海面に上がって振り返った。
 海岸に、白いなにかがゆらめいる。
 たぶんグッチエーレが、彼が逃れたことを喜んでいるのだろう。
 彼女と、また会うことができるのだろうか?……。
 イフチアンドルは、急いで沖へ出た。遠くに、切っ先で白波を蹴立て、白い航跡を残しながら、はねるように南に駆けていく小さな船が見えた。
(人間には近づかないようにしよう)イフチアンドルはそう考え、海の中に深く潜って姿を消した。

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