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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2005.1.15
2020.06.05
2023.10 最終更新日

第三十一章 逃亡

 オルセンがボタン工場から帰宅し、夕食に取り掛かったちょうどその時、誰かが扉をノックした。
「誰?」邪魔されたオルセンは、不満そうな大声を上げる。
 扉を開けて入ってきたのは、グッチエーレだ。
「グッチエーレ! 君だったのか! どこから来たんだい?」
 喜んだオルセンは、驚いて叫び、椅子から立ち上がった。
「オルセン、ごきげんいかが。夕食を続けてちょうだい」そしてグッチエーレは扉により掛かる。「私もう、夫や姑と一緒に暮らすことなんてできないわ。ズリタが……、私を本気で殴ったの……。だから出てきたの。オルセン、私もう戻らないつもりよ」
 これを聞いて、オルセンは食事の手を止めた。
「信じられないな!」と、オルセンは叫んだ。「座って! そこに立ちっぱなしってのも何だから。でもどうしたんだい? 君は『神が結びつけた相手と別れることはできない』と言ってたじゃないか? その話はどうなったんだい? でもその方がいい。私も嬉しいよ。君はお父さんの所に帰ったのかい?」
「父さんは、何も知らないわ。父さんのところに行ったりしたらズリタに見つかって、連れ戻されてしまうもの。友だちのところにいるの」
「で……、これからどうするんだい?」
「私、工場に勤めたくて、オルセン、あなたのところに来たの……。何か仕事はないかしら……」
 オルセンは申し訳なさげに頭を横に振った。
「今はとても難しいね。でももちろん聞いてみるよ」そしてオルセンは、少し考えてこう聞いた。「君の旦那さんは、それをどう思うかな?」
「私の知ったことじゃないわ」
「けれど旦那さんは、妻のことを知りたいと思うだろうね」と、オルセンは微笑んだ。「君はアルゼンチンにいるってことを、忘れちゃいけないな。ズリタは君を見つけ出すよ。そしてそれから……。彼が君をほっておかないことは、君も知っての通りだ。法律も世論も、彼の味方をする」
 グッチエーレは考えた。そして彼女は決心して言った。
「なら! そんな時は、私はカナダかアラスカへ行くわ……」
「北極へ、グリーンランドへ!」オルセンは大真面目だった。「私たちはそのことを本気で考えるべきだと思う。ここにいたら、君は危険だ。私は前から、ここを離れようと思っていた。ここは、あまりにも聖職者の力が強すぎる。だからあの時、脱出に失敗したのは残念だった。ズリタが君を誘拐して、私たちの切符が、渡航費用が無駄になってしまった。君は今、おそらくヨーロッパに向かう船のチケットを買うお金を持ってないはずだ。けれど私たちは、真っ直ぐヨーロッパに行かなければならないわけじゃない。もし私たちが、……『私たち』だよ。私は君が安全な場所に着くまでは、君から離れるつもりはないからね……。私たちが、少なくとも隣のパラグアイか、できればブラジルに行けば、ズリタが君を見つけることは、とても難しくなるだろう。その間に私たちは、アメリカかヨーロッパのどこかの国に渡る準備をすることができる。……君は、サルバトール博士とイフチアンドルが拘留されたのを、知っているかい?」
「イフチアンドルが? 彼が見つかったの? どうして拘留されたの? 彼に会うことができるの?」グッチエーレはオルセンを質問責めにした。
「そう、イフチアンドルは拘置所にいる。そしてズリタは再び彼を奴隷にしようとしている。サルバトール博士とイフチアンドルは、ばかばかしい訴訟を、ばかばかしくも不利な告訴をされたのさ」
「ひどいわ! 助けてあげられないの?」
「手はつくした。けれどうまくいかなかったんだ。だけど拘置所の所長が、意外にも私たちの味方だったのがわかったんだ。今夜のうちに私たちは、イフチアンドルを自由にしなければならない。私はさっき、短い手紙を二通受け取った。サルバトール博士と、拘置所の所長からだ」
「イフチアンドルに会いたいわ!」と、グッチエーレは言った。「一緒に行ってもいいでしょ?」
 オルセンは考え込んだ。
「行かないほうがいいと思う」と、彼は答えた。「君は……、イフチアンドルと会わない方がいい」
「どうして?」
「イフチアンドルは病んでいるからだ。それは人間としての病気で、けれど魚としては健康なんだ」
「わからないわ」
「イフチアンドルは、もう空気を呼吸することができないんだ。それでもし彼が君に会ったら、何が起こると思う? 彼にとって、そして君にとっても、つらいことになるだろう。イフチアンドルは、君と一緒にいたがるはずだ。そして空気中の生活は、最終的には彼の命を奪ってしまう」
 グッチエーレは、うなだれた。
「そうね。たぶん、あなたが正しいんだわ……」と、彼女は考え込んでから言った。
「彼と、そして全ての他の人々との間には、『海』という越えられない壁がある。それがイフチアンドルの……運命なんだ。これからは海が彼の故郷となり、唯一の世界となる」
「でも、でも彼はどうやって暮らしていくの? 果てしない海で、たった一人、魚たちや海の怪物に囲まれて?」
「彼は、平和な海の中で幸せだった。これまでは……」
 グッチエーレは赤くなった。
「今はもちろん、以前ほど幸せではないと思う……」
「やめて、オルセン」グッチエーレは、顔を曇らせた。
「いずれ時間が、全てを癒してくれる。彼は失った残りの幸せを見つけるだろう。彼は生きて行くだろう。魚と、海の怪物たちと一緒に。そして、サメに食べられたりしなければ、白髪の老人になるまで生き続けると思うよ……。けれど死は? 死はどこにいても訪れる……」
 薄闇が濃くなり、部屋も暗くなった。
「もう行かなきゃ」と、オルセンが立ち上がると、グッチエーレも立ち上がった。
「遠くから彼を見るだけならいいでしょ?」と、グッチエーレはたずねた。
「そうだね。もし、君が姿を隠しているなら」
「ええ、約束するわ」
 オルセンが、水運び人夫の服を着て、樽を積んだ馬車を操り、コロネル・ディアス通り通用門から拘置所の中庭へと入ったときには、あたりはすっかり暗くなっていた。
「何の用だ」と、警備員が彼を呼び止める。
「悪魔に海水を運んできたんです」と、オルセンは所長に教えられた通りに答えた。
 警備員たちはみな、拘置所に海の悪魔という特別な囚人がいることを知っていた。悪魔は真水には耐えられず、海水で満たされた水槽に入っていて、この海水をときどき入れ替えなければならないことを、知っていた。これまでも時折、馬車に乗せた大きな樽で海水が持ち込まれ、交換されている。
 オルセンは、拘置所の建物まで馬車をすすめた。そして厨房のある角を曲がると、職員が出入りするための通用口があった、所長はすでにすべての準備を終えていた。普段は廊下や出入り口に立っている警備員たちは、様々な口実で余所へやられ、所長に付き添われたイフチアンドルがやってきていた。
「さぁ! 急いで樽の中に飛び込むんだ!」と、所長が言うと、イフチアンドルはすぐさまそうした。
「行けッ!」オルセンは手綱で馬を叩き、拘置所を出る。
 そして焦らずにアルベアル通りに沿って進み、貨物駅であるレティーロ駅を過ぎた。
 遠くないところで後を追う女の影が、ゆらめいていた。
 オルセンが町を出た時には、あたりは闇に閉ざされていた。道は海に出て、海岸に沿って進む。風が強くなる。波が海岸に押し寄せ、そして岩で砕けて轟きを上げる。
 オルセンはあたりを見回した。誰も居なかった。ただ遠くで自動車のライトの輝きが、素早く動いているだけだ。
「通り過ぎるのを待とう」
 警笛と、目がくらむような光を残し、町に急ぐ自動車は過ぎ去り、そして遠ざかって見えなくなった。
「今だ!」オルセンは最後の合図をした、そしてグッチエーレに、岩影にかくれるようにと手を振った。そして樽を叩いて叫んだ。「着いた! 出ていいぞ!」
 頭が樽から出てきた。
 イフチアンドルは、あたりを警戒していたが、素早く地面に飛び降りた。
「ありがとう、オルセン!」青年は、濡れた手で、大男の手を握って、そう言った。イフチアンドルは、まるで喘息の発作を起こしているかのように、ぜいぜいと呼吸していた。
「礼はいいから、さようならだ! 注意しろ。あまり海岸近くを泳ぐんじゃないぞ。また捕まって閉じ込められないように、人に注意するんだ」
 オルセンは、イフチアンドルが博士からどう言われているかまでは、知らなかった。
「ええ、そうします」イフチアンドルは、息を詰まらせた。「僕は、船も来ない静かな珊瑚礁へ行きます。ありがとうオルセン!」そして若者は、海に向かって走って行った。そして彼は突然波打ち際で振り向いて叫んだ。「オルセン、オルセン! もしあなたがグッチエーレに出会うことがあったら、僕がよろしく言っていたと、伝えてください!」そして青年は、海に飛び込みながら、大声で言った。「さようなら、グッチエーレ!」
 そして彼は、海の中に姿を消した。
「さようなら、イフチアンドル!」
 岩影に立つグッチエーレが、そっと応えた。
 風がますます強くなり、立っていられなくなってきた。海は荒れ狂い、砂が叩きつけられ、石が転がってくる。
 グッチエーレの手を、誰かの手が取った。
「行こう。グッチエーレ!」
 オルセンが、心を込めて言った。彼はグッチエーレを連れて、道に向かう。
 グッチエーレは、海を振り返った。そして、オルセンの腕によりかかると、二人は町へ帰っていった。

 ***

 サルバトールは、刑期を勤め上げると家に帰り、再び研究に没頭した。彼はどこか遠い所へ旅行するための準備をしている。
 クリストは、彼の元で働き続けている。
 ズリタは新しい帆船を手に入れ、カリフォルニア湾で、真珠を採っている。彼はアメリカの大金持ちにはなれなかったが、その運命に文句を言う筋もなく、気圧計のようなその髭は、高気圧を示している。
 グッチエーレは正式にズリタと離婚して、オルセンと結婚した。そして二人はニューヨークの缶詰工場で働いている。
 ラプラタ湾の沿岸では、海の悪魔の話は、忘れられた。
 ただ時々、息がつまりそうな静かな夜に、年老いた漁師が聞き慣れぬ物音を耳にすると、若者たちにこう話す。
「海の悪魔は、こんなふうに法螺貝を吹いたものだ」
 そして彼は、その伝説を話し始める。
 たった一人、ブエノスアイレスに、イフチアンドルのことを忘れない者がいる。
 町のワルガキどもは、この半ば狂ったインディオの物乞いの老人を知っていて、からかって遊ぶ。
「海の悪魔のオヤジが行くぞ!」
 けれど老人の目には、子どもたちなど入っていないようだ。
 ただスペイン人と行き会うと振り返り、その後姿に向かってツバを吐き、呪いの言葉をぶつぶつとつぶやく。
 けれども警察は、このバルタザール老人を、かまいはしない。おかしくはなっていても大人しく、誰に迷惑をかけるわけでもないからだ。
 ただ嵐が近づくと、老人は、ひどい不安にさいなまされる。そして海岸に急ぎ、波にさらわれる危険もいとわず、沿岸から石のように動こうとしなくなる。
 そして彼は昼も夜も、嵐が終わるまで、叫び続ける。
「イフチアンドル! イフチアンドル! 俺の息子! ……」
 けれど海は、秘密を隠し続けている。

(終)

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