ゲーム論考index

MMOの楽しみはどこにあるのか。
〜あるいは、どうして国産MMOは次々失敗するのか〜

Date:2007/03/27(火) 16:16
Name:山北 篤

 さて、今回の話をする前に、大前提として以下のことを主張したい。

    どんなに面白いゲームであっても、仲間と喋る楽しさには勝てない

 これは、ゲームデザインをする者としては屈辱的な事実ではある。だが、現実にそうであることを認めないのは、もっと愚かだろう。
 将来のゲームについては判らない。画期的な技術が開発されて、駄弁りよりも面白いゲームが作られるかもしれない。だが、少なくとも現在のゲームにおいては、これは、事実であると認めざるを得ない。
 そして、これが事実であるならば、日本製MMOが失敗する理由も明らかである。彼らは、ゲームを作ってしまったがために、敗北しているのだ。
 MMOは、ゲームも出来るコミュニケーションツールとして遊ばれているのであって、決してゲームとして遊ばれているのではない。だからこそ、まじめにゲームを作っているはずの日本のMMOが次々と敗退するのだ。

 こういうことを書くと、ならばそもそもMMOなんて必要ないではないかという議論が始まる。コミュニケーションならば、チャットや携帯で十分ではないかと。
 だが、それも間違っている。
 上の前提には、二つの条件があることに気付いているだろうか。

1.喋るのは楽しい。
2.ただし、その相手は仲間で無ければならない。

 だが考えてみよう。一度も会ったことが無く、オンライン上でのみ知っている相手を「仲間」と思えるだろうか。
 かつて、HABITATという、ヴィジュアル付きチャットが作られたことがあった。日本でも、Niftyに導入され、かなり大きなプロモーションもなされた。しかし、ごく一部の熱心なファンはいたものの、結局マスに流行ることは無かった。
 つまり、仲間で無い人とおしゃべりをしても、それは面白くは無いのだ。

 MMOが楽しいのはなぜか。それは、「仲間」と、それこそ命を的に身体を張った冒険を共にした仲間とおしゃべりが出来るからだ。
 彼らは、ゲームをしたいだけではない。しかし、おしゃべりをしたいだけでもない。MMOのゲーム部分というのは、オンラインでしか知らない他人を、「仲間」にするための儀式なのだ。
 儀式であるからには、そこに思いっきり凝られても仕方が無い。新たなより工夫したゲームを持ってこられても、それはただ単に儀式を複雑にする(=より面倒な儀式を必要とする)ことによって、本命(=仲間とのおしゃべり)を遠くする邪魔者に過ぎない。

 しかし、だからといって、仲間を作る枠組みが無いのもどうか。
 SecondLifeとかHomeの話題を聞くたびに、これって画面がきれいになったHABITATとどこが違うのだろうかと疑問に思う。
 この世界に、「仲間」を作る枠組みはあるのだろうか。そこにいれば居心地のいい「仲間」のいるスペースを、作っているのだろうか。
 Homeは、あらゆるゲームのエントリーラウンジというあり方を取ることで、「仲間」の集まる場所を作ることが出来るかもしれない。けれど、拡散したことによって、仲間性が希薄になり、あらゆるゲームの仲間が集わない場所になってしまう可能性もある。
 けれど、もっと危なそうなのがSecondLifeだ。もちろん、実社会のコピーであるSecondLifeには、実社会と同じ方法論による仲間作りが可能だ。だが、それが面倒だから、皆MMOで仲間を作るんじゃないの? とすると、SecondLifeで、わざわざ実社会と同じ苦労をして仲間作りをしなくてはならない意味はあるの?
 もし、「仲間」作りの枠組みや、その「仲間」の集う場所作りの枠組みが無いのならば、これらは所詮一過性の話題と少数の熱心なファンだけの狭い世界に留まるしかないような気がする。

 もちろん、こんな嫌な予測は外れてくれたほうが望ましい。
 何年か後、こういうことを書いたことを恥じるようになっていれば、いいのだけれど。

2008年4月20日追記

 残念ながら、去年の予測は当ってしまったようだ。SecondLifeは失速し、一般的なものにはなりきれないで終わりそうだ。
 では、その次の仮想空間はどうなるだろう。期待しないで、待ってみるしかないのだろう。

戻る