(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2003.10.24
2005.1.15 最終更新日

2 イルカに乗る者

 昇ったばかりの太陽が、すでに容赦なく照りつけていた。輝く青空に雲はなく、海にはさざ波の気配もない。
 メドゥーサ号は、バルタザールの意見で、ブエノスアイレスの南方二十キロあたりにある、水面に二つの岩礁が頭を出した、小さな岩の入り江に錨を下ろしていた。
 入り江のいたるところに散ったボートには、真珠採り二人づつ乗り込んでいる。二人は潜水役と引き上げ役となり、時々交代するのだ。
 海岸近くの一隻のボートから、ロープを体に結んだ潜水役が、サンゴ質の大きな塊を錘に抱えて飛び込み、すばやく海底に潜っていく。
 水はとても温かく澄んでいて、ボートの上からも海底の岩がはっきりと見えていた。水中庭園であるかのように、ばら色のサンゴが枝を伸ばしている。銀色の泡が藻の茂みから立ちのぼり、その間を金色にきらめく小魚が泳いでいる。
 潜水役は海底に到着すると体勢を立て直す。そして急いで貝を集め、ベルトの脇の袋に入れた。
 ボートの上にいる、引き上げ役のヒューロン族のインディオにも、相棒がロープを手繰りながら体勢を変える姿が、よく見えていた。
 と、突然その相棒は、ロープを引っ張りながら足をばたつかせて浮上し、ヒューロンに捕まった。ボートが揺れる。ヒューロンはあわてて相棒を引き上げた。
 相棒は、大きく口を開けてぜいぜい言いながら、ボートの底に倒れこんだ。目はまん丸に見開らかれ、全身青ざめ、顔は土気色になっている。
「サメか?」
 しかし相棒は、口を利くことすらできないようだ。
 何が彼を驚かせたのだろう? ヒューロンは振り返って、海底を覗き込んだ。
 確かに何かがおかしかった。
 鷹に追われる小鳥が森の中に逃げ込むように、小魚が密生した藻の中に急いでいる。
 突然水中に、深紅色の煙のようなものが立ち上った。煙はピンク色になりながら、ゆっくりと広がっていく。ヒューロンの身の毛がよだった。
 暗い影が横切った。サメだ。ゆっくりと身をひねりながら、岩影に姿を消していく。水中の深紅の煙は、海中に流れ出たサメの血だ。
 何が起きているのか?
 相棒は、まだ大きな口を開けてぜいぜいと息を切らしている。唇を突き出し、言葉を失ったかのように、口をパクパクさせているが、うめき声しか出てこない。
 ヒューロンは、急病の相棒をメドゥーサ号に運ぼうと、オールをつかんで急いで漕ぎ出した。
 到着早々、船にいた真珠採りたちが、何事かと集まってきて、二人を取り囲む。
「ねえ!」と、若い真珠採りが病人を揺する。「何を怖がってるのか、言ってくれなきゃ、わからないじゃないか」
「あれを見た……。海の悪魔を」
「あれ? まさか」
「いいから話せ、話すんだ!」と、真珠採りたちがすぐさま叫ぶ。
「サメがいた。サメは私の方にまっすぐ泳いできた。大きな暗い口が迫ってきて、もうおしまいだと思った。けれどあいつがやって来た。俺はあいつが泳いで来るのを見たんだ……」
「別のサメか?」
「悪魔だ!」
「どんな? 頭はあったのか?」
「頭か? そう、あったような気がする。目は……桶みたいな…」
「目があるなら、頭だってあるさ」若い真珠採りが断言する。
「目のことはわかった。しかし、足はあったのか?」
「足は、カエルみたいだった。指が長くて、爪があって、水かきがあって、緑色だった。体には魚みたいな光る鱗があった。そいつはサメに向かって泳いでくと、輝く前足を突き出した サメにだ! すると、サメの腹から血が流れ出した」
「後ろの足はどうなってた」
「後ろ足か」彼は思い出そうとする。「足はまるでなかった。大きな尻尾だ。蛇のようにくねくねした二股の尾だ」
「それでサメと怪物の、どっちを怖がってるんだ」
「もちろん怪物だ」と、彼は即答した。「オレの命を救ってくれたが、怪物は怪物だ」
「もちろんだ。怪物は怪物だ」
「海の悪魔は」と、年配の真珠採りが言った。「貧乏人を助けてくれる海の神様かもしれん」
 このニュースは、あっというまに入り江中のボートに広まった。
 真珠採りたちは帆船に急ぎ、ボートを船に引き上げると、海の悪魔に助けられた男を取り囲んで質問攻めにした。求められるまま他の者たちに話を繰り返すうちに、彼の話では、怪物は鼻からは赤い炎を出し、歯は鋭く長く、耳は動き、オールような尻尾があることになってしまった。
 ズリタも、ソンブレロ帽に白い半ズボン、素足でサンダルをつっかけ、ベルトの上は裸といういでたちで甲板にやってきて、この話を聞いた。そしてよくよく聞いた上で、サメに襲われかけて怖がった男の作り話だと確信した。
(しかし、まったくの作り話ではなさそうだ。誰かがサメの腹を割いた。ピンクに染まった海の水を俺も見た。こいつの話には、真実が含まれている。今までの奇妙な事件と、関係があるに違いないぞ!)
 突然聞こえてきた角笛の音によって、ズリタの思考はさえぎられた。
 音は雷鳴の轟きのように、メドゥサ号の人々に衝撃を与えた。
 皆青ざめ、おしゃべりの声が消える。
 迷信におびえる真珠採りたちが、角笛の音がした岬の方を見る。
 岬からそう遠くないところで、イルカの群れが海面で遊んでいた。
 一頭のイルカが、角笛の音が合図であったかのように群れから離れ、高々と潮を吹きながら岬の向こうに姿を消す。
 そして張り詰めた一瞬の後、ふいに岬の向こうからイルカが姿を現した。
 姿を消した一瞬の間に、イルカは男が話した通りの『悪魔』を、背に乗せていた。
 まるで馬に乗るかのように、『悪魔』はイルカにまたがっている。
 体つきは人間のようだが、とてつもなく大きな顔に、自動車のライトのガラスのような目があり、それが太陽を反射して光っている。肌は青っぽい銀色の鱗で覆われ、カエルのように指が長く、その間に水かきのある手は、暗い緑色だ。足の先は水面下にあるので、尾なのか、人間の足のようになっているのかは、わからない。
 手には巻貝を持っていた。そして貝を吹き、陽気な笑い声を上げ、突然はっきりとしたスペイン語でこう叫んだ。
「もっと早く、リーディング!」
 リーディングはスペイン語ではなく英語で、「先へ」か「前へ」だ。
 そして怪物は、イルカのつやつやした背中を、カエルの手で強く叩き、足でわき腹に拍車をかけた。するとイルカは、よい馬のようにスピードを上げた。
 真珠採りたちが、ついに悲鳴を上げた。
 すると『悪魔』は、トカゲのようにするりとイルカから滑り落ちて、イルカの体の影に隠れてしまった。緑色の手だけが水面に残り、その手がイルカの背中を叩くと、イルカも水中に潜ってしまった。そして『悪魔』とイルカは、ぐるりと水中を先回しながら、岬の向こうへと姿を消した……。
 これらの異様な出来事が始まってから一分たらず。ついに見物人たちの心の奥底までに、驚愕が染み渡ったらしい。
 真珠採りたちは叫び、

 真珠採りたちは叫び、甲板を走り、マストの天辺に駆け上がった。インディオたちは、ひざまづいて海の神に許しをこい、若いメキシコ人は、恐怖から逃れようと、メインマストに登って叫び、黒人は船倉の隅に転がり込んで隠れていた。
 もう真珠採りどころではない。
 ズリタとバルタザールには、メドゥサ号の錨を上げて、北へ戻ることしかできなかった。

次へ