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 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2003.10.30
2005.1.15 最終更新日

4 サルバトール博士

 ズリタはすぐさま実行した。
 入り江全体に、もつれたロープのついた網の罠を仕掛けたのだ。
 しかし、目当ての怪物は地にでも潜ったのか、掛かるのは魚ばかり。海の悪魔は、まるで姿を見せなかった。
 例のイルカも、その奇妙な友人を探して、入り江をいったり来たりしているけれど、やはり無駄足を踏んでいるようだ。イルカは、友達が来ないのを怒ったかのように、最後に潮を噴くと、入り江の外に泳いでいった。
 天候が崩れてきた。東からの風が波を立て、入り江の底から舞い上がった砂で海が濁り、高い波が水面を覆い、誰も海の中を見ることができなくなった。
 ズリタは海岸に立って、押し寄せる波を眺めていた。轟音を立てる滝のように、次々と大波が押し寄せて、ズリタの足元にも砂や小石や貝殻が転がってくる。
「あきらめやしないからな」と、ズリタは自分に言い聞かせた。
「別の方法を考えなきゃならん。海の悪魔が海底から動かないってなら、やることは決まってる。こっちから出向いてやらなきゃならん!」
 そしてズリタは、やり方を変えると言って、バルタザールを呼んだ。
「すぐにブエノスアイレスへ行って、酸素ボンベのついた潜水具を2つ手配してこい。空気を送り込むホースがついている普通のヤツじゃないぞ。海の悪魔はホースを切っちまうからな。そういうヤツじゃ海の底から戻れんぞ。あと、水中ランプも忘れちゃならん」
「海の悪魔のところに、お客に行こうっていうんですか」
「頼んだぞ、バルタザール」
「あんたとは、長い付き合いですからねぇ」
 バルタザールは、首を傾げてうなずいた。
 そして潜水具とランプと、複雑に曲がりくねった青銅色のナイフを手に入れて戻ってきた。
「こういう物は、もう今じゃ作り方もわかりませんが」と、バルタザールはそれを見せた。「こいつはアラウカンの古代のナイフでさぁ。ワシのひいじいさまが、あんたのひいじいさまの腹をかっさばいたかもしれませんが、あんたを裏切りゃしませんよ」
「まぁ、いいナイフではあるな」
 ズリタは嫌そうな顔をしつつも、ナイフを認めた。

 翌日、波は高かったけれど、夜が明けるとズリタとバルタザールは、潜水具を身に着けた。そして入り口に仕掛けた罠を苦労してどかし、狭い水中洞窟に潜り込んだ。
 完全な暗闇が、あたりを包む。
 バルタザールがナイフを鞘から抜くと、ランプを灯した。
 小魚たちが驚いて逃げ出し、それから光に集まる虫のように、その青白いランプに寄ってきたので、ズリタは手を振って、鱗をきらめかせる小魚たちを追い払った。
 洞窟の内部は、十分に広かった。
 高さは4メートル以上もあり、幅はその5倍か6倍はある。
 洞窟は空っぽで、荒れた海や大きな魚から隠れている小魚の他は、何も棲んでいないようだ。
 ズリタとバルタザールは、注意深く奥へと進んだ。
 洞窟は、次第に狭くなってくる。
 そしてズリタは驚いて動きを止めた。
 ライトに照らし出されているのは、太い鉄格子だった。
 ズリタは、自分の目が信じられなかった。手で鉄格子を引っ張ってみたが、まるで開かない。ランプを近づけ、鉄格子は洞窟の内側の壁に、しっかりとボルトで止められていることを、確かめた。
 これは新しい謎だった。
 海の悪魔に、イルカを飼いならしたり、金網から抜け出したりするような知能があることは、わかっている。
 その上、海の底にある棲家を守るために、丈夫な鉄の障害を作ることができるらしい。
 しかし、そんなはずはない! 水中で鉄を鋳造することなど、できるはずがないのだ。
 つまりそれは、海の悪魔は水中に棲んでいるとしても、同じぐらい長く水から出て、地上にいられるということだ。
 ズリタは、それから数分間水中にいたが、酸素がなくなってきたのか、こめかみがじんじんとしてきたので、バルタザールに合図して、水中洞窟を後にして水面に出ると、船で待っていたアラウカンたちが、無事に探索を終えて戻ってきたことを大喜びした。
 潜水帽を取って一息つけると、ズリタはバルタザールに相談した。
「おい、どう思う」
 バルタザールは、手を上げた。
「鉄格子をダイナマイトでぶっこわさないかぎり、どれだけ待ったって無駄でしょうな。あそこには魚がたくさんいる。腹を減らして出てくることなど、ありゃしやせん」
「それよりバルタザール。他にも入り口があるとは思わないか? ひとつは入り江。ひとつはどこか別の場所。たとえば地面の上……」
 バルタザールは思いつきもしていなかった。
「バルタザール、こいつを考えて見る必要があると思わないか? 俺たちはもっとまわりを見て、そのことに早く気づくべきだったんだ」
 そして彼らは、海岸を調べることにした。

 すぐにズリタは、海岸沿いの10ヘクタールはありそうな広い地域が、高い壁に囲まれていることに気がついた。壁の周囲を一回りしたが、内側に蓋のあるのぞき穴のある分厚い鉄板の扉がついた門がひとつあるきりだ。
(まるで刑務所か要塞じゃないか。)と、ズリタはいぶかしんだ。(農夫はこんなに厚くて高い壁なんか作らないし、中が見えるような隙間ひとつないなんて、おかしすぎる。まわりは人っ子一人いない荒野で、棘だらけの藪とサボテンしかないってのに。それに、まさにあの入り江の真上だぞ。)
 それから何日か、ズリタはこの壁の門のところに毎日行っては、長い時間見張ってみた。けれど門が開くことはなく、誰も通らないし、何の音も聞こえてこない。
 ズリタはメドゥーサ号に戻って、バルタザールに尋ねてみた。
「入り江の上の要塞に、誰が住んでいるか知ってるか」
「あぁ、地元のインディオから聞いてますよ。サルバトール博士だそうで」
「そりゃあ何者だ?」
「神様」
 ズリタは驚いて、黒くて太い眉をしかめた。
「バルタザール、冗談を言うな」
 老インディオは、真顔のままだ。
「聞いた話を、そのまま話してるんですよ。このあたりのインディオは、サルバトール博士のことを、『神様』とか『救い主』とか呼んでるんでさ」
「そいつは何から……そいつらを救うんだ」
「死。
 サルバトール博士は、奇跡を起こす。指先で生死をあやつり、足の曲がった者にはまっとうな足を与え、目の見えない者には鷲のように鋭い目を与え、さらには死人をも生き返らせる」
「こんちくしょう!」
 もじゃもじゃしたヒゲを指でしごきながら、ズリタがつぶやく。
「海の悪魔がいる入り江の上に、神がいる……。バルタザール、悪魔と神は、関係あるとは思わないか?」
「ワシに何か言わせてもらえるなら、奇跡で頭ん中をどろどろのミルクにされて、まともに考えられなくなる前に、ここをさっさと引き上げるべきですな」
「実際に、サルバトール博士に治療されたヤツと会ったのか?」
「ええ、会いましたとも。野生馬みたいに走れるヤツが、ダメにした足をサルバトール博士に治してもらったと、ワシに教えてくれましたよ。
 それに生き返らせてもらったというヤツもいた。頭が割れて脳みそがはみだして、冷たくなって博士のところに担ぎこまれて、で、元気になって戻ってきて、今じゃ結婚もして子供も生まれたんですとさ」
「サルバトール博士は、誰でも診てくれるのか?」
「インディオだけですよ。アタカマやアスンシオン砂漠、ファゴ諸島、それからアマゾン、インディオならどこから来ても診るらしい」
 ズリタはこの話を聞くと、一旦ブエノスアイレスに戻って、街の医者たちに聞いて回った。
 どうやら博士は、天才的な外科医ではあるものの、かなりの変わり者であるらしい。
 年配の新聞記者や科学者たちは、サルバトール博士の名前を、よく知っていた。アメリカでは、斬新な外科手術をすることで、有名だったそうだ。
 医者の誰もがサジを投げるような絶望的な状況の仕事を頼まれても、決して断ることはなく、勇気と機知に富んだ高い処理能力は無限であるかのようだったという。
 第一次世界大戦では、フランス前線において、ほとんど全ての脳外科手術を一手に引き受け、何千人もの命を救ったらしい。
 戦争が終わり、故国アルゼンチンに帰郷したときには、医者としての仕事と遺産で、サルバトール博士はひとかどの富豪になっていたそうだ。
 そしてブエノスアイレスからさほど遠くないこの土地を買い入れて、巨大な壁でそれを囲み、その中に落ち着いてしまった。
 今や彼は研究に没頭し、インディオだけを治療して、神と呼ばれている。
 現在サルバトール博士の広大な敷地がある場所には、戦前から石の壁に囲まれた彼の小さな家と果樹園があり、博士が前線に行っている間も、黒人と何匹もの大きな犬によって管理されていたそうだ。
 近頃は、大学時代の僚友とすら会おうとしないほど、人を遠ざけているという。
 これらのことを調べ上げると、ズリタは心を決めた。
(サルバトールが医者ならば、病人を診ないということは無いはずだ。俺が患者のふりをして、サルバトール博士のところにもぐりこみ、秘密をあばいてやろう。)
 ズリタはサルバトール博士の敷地を守っている壁へ向かい、鉄の扉を叩き始めた。しかし、長い間叩き続けても扉は開かなかった。
 怒ったズリタは、大きな石を拾って、死者をも目覚めよとばかりに扉に叩きつけ始めた。
 やがて犬が吠え始め、最後には扉ののぞき窓が、わずかに開いた。
「何か用か」
 訛ったスペイン語で、誰かが尋ねた。
「患者だ。すぐに診てくれ」と、ズリタが答える。
「患者はそんなふうには叩かない」と、のぞき窓の向こうの、穏やかな目の持ち主は、静かに言った。
「博士は診ない」
「患者を診ないってのか!」と、ズリタが怒鳴る。
 しかしのぞき穴は、すでに閉まっていた。
 聞こえるのは、犬が吠える声だけだ。
 ズリタはしばらく罵って、メドゥーサ号に戻って考えた。
(ブエノスアイレスに戻ってから、サルバトール博士に文句でも伝えるか。いや、それじゃなんの解決にもなりゃしない。)
 ズリタは怒りで震えていた。
 彼の黒い口ひげは引っ張られて、気圧計の下がった針が嵐の到来を伝えるごとく、彼のイライラをあらわしている。
 しかし次第に落ち着いて、次に何をすべきか考えはじめた。
 それにつれ、ヒゲは日焼けした茶色の指でくしけずられ、落ち着いていく。
 彼の気圧計の針が、上がってきた。
 ズリタは、甲板にいる者たちの予想に反して、錨を上げてブエノスアイレスへ向かえと命令した。
「そいつはいいですな」と言ったバルタザールに、ズリタはこう答えた。
「いいものか! どれだけ無駄にしたと思ってるんだ! 神も悪魔も呪われてしまうがいい!」

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