(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2003.11.4
2005.1.15 最終更新日

7 第三の壁

第七章 第三の壁

 クリストは、次第にこの未知の、異様でいてなおかつ平和な環境に、慣れていった。
 庭にいる動物たちは、鳥も爬虫類もよく馴れていて、彼はその中の何匹かと仲良くなりさえした。
 初めて庭に入った時に彼を驚かせたジャガーの毛皮を持つ犬は、今では彼の手を舐め、後をついて歩き、踵にじゃれつくようになった。ラマは彼が手に持ったパンを食べるし、オームは腕に飛び乗ってくる。
 庭と動物たちは、ジムと十二人の無愛想で寡黙な黒人たちによって管理されていた。みな無言で仕事をし、互いに話すことすらないようだった。
 ジムが、彼らの仕事を管理していた。黒人たちに仕事を割り振り、監視した。
 クリストは、彼自身も驚いたことに、ジムの助手に任命された。彼の仕事はそんなに多くはなく、危険でもなく、食事は充分に提供され、そのことには不満はなかった。
 ただ黒人たちの不吉な沈黙だけが、彼を不安にさせた。
 クリストは、最初彼らがサルバトール博士に舌を切り取られたのだと、思い込んでいた。だから博士に呼ばれるたびに、自分の舌が切り取られる番がやってきたのではないかと怯えていた。
 しかしその心配もまもなく消えた。
 ジムがオリーブの木陰で昼寝していたとき、クリストは注意深く彼の口の中を覗き込み、舌があることを確かめることができたからだ。それでやっと、少しばかり彼は落ち着くことができたのだ。
 日中、サルバトール博士は、厳密なスケジュール通りに行動した。朝の七時から九時までは、病気のインディオたちを診察した。九時から十一時までは別棟の実験室で彼らを手術するか、研究のために動物を手術した。動物は観察された後、庭に放された。
 クリストは掃除のために、この実験室に入ったことがある。
 しかし、そこで目にしたものには心底驚いた。
 ガラスの入れ物の中で、心臓が鼓動していた。切り離された腕や足が生きていた。
 サルバトール博士は、病気の部分を切り離して治療し、後で元通りに戻すのだ。
 クリストは、恐怖のあまり逃げ出して、それからは庭のおかしな動物たちと一緒にいる方が好きになったのだ。
 彼はサルバトール博士に信頼されつつあったが、三番目の壁の向こうに入れてもらえることはなかった。だからこそ、気になってしかたがないのだ。
 ある日の昼、休憩時間にみんなが昼寝をしているときに、クリストは三番目の壁に近づいて耳を澄ませた。壁の向こうから、子どもたちの声が聞こえてくる。インディオの言葉だ。しかし、時々子どもたちの声にまじって、甲高い声で叫ぶわけのわからない言葉が聞こえてきた。
 後日、サルバトール博士が、クリストのところにやってきた。そして彼の目をまっすぐ見据えて言った。
「クリスト、私のところで仕事をするようになってから、一ヶ月が過ぎた。私はお前に満足している。実は下の庭の者が一人病気になってね、そこでお前に代わってもらおうと思う。ただし、お前はそこで見たこともない物をたくさん見るだろう。もし口の中に舌を収めておきたいと思うなら、私たちの約束を思い出すことだ」
「無口な連中と一緒にいる間に、もう喋り方なんぞ、ほとんど忘れちまいましたよ」
「よろしい。沈黙は金だ。口を告ぐむなら、お前は金を、ペソを得るだろう。二週間、足を傷めた者の代わりをしてもらう。話は変わるが、アンデスには詳しいかね?」
「あっしは山育ちでさぁ」
「それは都合がいい。近々新しい動物や鳥を補充しに行くから、お前にも連れて行くことにしよう。それはそれとして、今はすぐに新しい仕事に取り掛かりなさい」
 そしてクリストはジムに案内されて、下の庭へと連れていかれた。
 彼はもう充分驚いていたつもりだったが、下の庭で見たものは、予想をはるかに越えていた。
 そこには日当たりの良い広い草原があり、裸の子どもたちが猿と遊んでいた。各地のインディオの子どもたちで、一番小さい子が三歳ぐらい、大きな子どもが十二歳ぐらい。みなサルバトール博士の患者で、大手術を受けて命をとりとめて、この庭で走ったり遊んだりしながら、家に帰ることができるほど体力をつけている。そして回復したころに、親たちが迎えに来るのだ。
 子どもたちと一緒にいるのは、毛と尻尾のない猿だ。
 驚くべきは、へたくそながら、猿たちが口を利くということだ。大半はへただが、中には上手に喋る猿もいる。彼らは甲高いキーキー声によって、猿どうしや子どもたちと、言い争っている。猿は子どもたちよりも、猿同士で言い争う傾向にあるらしい。しかし仲はよさそうだ。
 一瞬クリストは、猿と人との区別がつかなくなりそうな気分になった。
 他より狭いこの庭にも果樹園があり、そして立ち上がった垂直な壁に突き当たって終わっている。クリストは、すぐにその崖の向こうに海があることに気がついた。波の音が、この壁の向こうから聞こえてくる。
 クリストは数日間調べて、この崖が人工的なものであることを突き止めた。厚い藤の蔦に覆われたその下に、見分けをつけにくくするために崖と同じ灰色に塗られた、鉄の扉を見つけたのだ。
 クリストは扉の前で耳を澄ませた。聞こえてくるのは磯波の唸りだけだ。この小さな扉は、どこへ通じているのだろうか? 海辺だろうか。
 突然興奮した、子どもたちの声が上がった。子どもたちは、空を見上げている。その視線を追って見上げたクリストの頭上を、ゆっくりと庭を横切りながら、赤い風船が飛んでいく。風船は風に運ばれて、海の方へと飛ばされていった。
 庭の上を横切った風船は、クリストをうろたえさせ、落ち着きを失わせた。そして彼は、足を傷めた使用人が戻ってくると、すぐにサルバトール博士に会いに行った。
「先生! アンデスに行くんなら、ずいぶん長い間になりまさぁ。その前に、あっしを、娘と孫娘の顔を見に行かせてやってくだせぇ」
 サルバトール博士は、使用人がこの刑務所のような場所から出歩るくことに、よい顔をしなかった。誰にも会って欲しくないと思っていた。
 クリストは、無愛想なサルバトール博士の視線を、じっと見返しながら返事を待った。そのクリストの冷静な様子は、サルバトール博士によく似ていた。
「舌の約束を忘れるんじゃないぞ! 三日後に戻りなさい。ちょっと待っていなさい!」
 サルバトール博士は部屋を出て、金貨の入ったセーム皮の袋を持って戻ってきた。
「これはお前の孫娘と、そしてお前の沈黙のために、持って行くがいい」

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