(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2003.11.6
2003.11.7
2005.1.15 最終更新日

9 両棲人間

 クリストは、いつサルバトール博士がやってきて、こんなことを言わないかと待ちかまえていた。
「クリスト、お前は命の恩人だ。今や私とお前の間に秘密などあるものか。さあ、海の悪魔を見せてあげよう」
 しかしサルバトール博士は、気前よくクリストに褒美を与えたものの、その手のことは何も言わず、再び研究に没頭してしまったので、クリストは自分の研究に手をつけることにした。つまり、四番目の壁と秘密の扉についての調査だ。
 時間をかけて扉を調べ、ついに小さな出っ張りを発見した。それを押すと、突然厚くて重い金庫の扉のように、それは開いたのである。
 急いで中に入ると、扉はそのすぐ後ろでバタンと閉まった。クリストは少々あせって、あたりの出っ張りを片っ端から押してみたが、扉が開く気配はない。
「自分から罠に飛び込んじまったぞ」と、クリストはつぶやいた。
 それはそれとして、そこもまた人の手が入った場所のようだった。そこで彼は、とりあえずサルバトール博士の、たぶん最後の秘密の庭を見て回ることにした。
 崖に模した人工的な高い壁に囲まれてた庭は、小さな洗面器のようだ。庭木は大きく茂りすぎてしまっている。
 波の音や、波に揉まれる小石の、シャラシャラという音が聞こえて来きた。
 湿地で育つ藪や木々が密生し、日の光を遮って作った暗い木陰を、小川が流れている。
 散水機が水を撒いて、まるでミシシッピー川の川下のデルタ地帯のように、空気をじっとりと湿らせている。
 平らな屋根の小さな石造りの家が、庭の中に建っていたが、その壁も窓も木蔦に覆われ、誰か住んでいるようには見えなかった。
 クリストは、庭の端まで行って見た。木々が生い茂ったその向こうに、入り江を壁で切り取った、大きな正方形のプールがある。広さは五百平方メートル、深さは五メートルはありそうだ。
 そこに何か生き物が飛び込んで、水しぶきをあげた。
 クリストはプールに急ぎ、緊張しながら立ち止まった。あれこそ海の悪魔に違いない。彼はプールの澄んだ水を覗き込んだ。
 底の白い石のタイルの上に、大きな猿が座っていた。猿は驚きと興味のまじった顔つきで、水の下からクリストを見上げている。
 猿の胸はふくらんだりしぼんだりしている。水中で呼吸しているのだ。
 最初の驚きから解放されると、クリストは笑い始めた。漁師を脅し、恐怖をもたらした海の悪魔とは、この両棲猿だったのだ。
(こんなもんだったのか。)
 クリストは、秘密を突き止めたことに満足しつつも、虚しさを感じずにはいられなかった。猿は、目撃者たちの証言とは似ても似つかない。
(怖がるあまり、勝手な想像をしやがって!)
 後は、どうやって戻るかだ。
 クリストは扉のある場所まで戻り、高い木を利用して壁の上によじ上ると、侭よとばかりに向こう側に飛び降りた。
 彼が飛び降りるか降りないかの丁度その時、サルバトール博士の声が聞こえた。
「クリスト!」
 クリストは、道端にあった熊手を手にして、枯葉を掻き集め始めた。
「ここでございやす」
「ちょっとついてきなさい」やってきた博士は、崖に隠された鉄の扉に近づいた。「この扉は、こうすれば開く。覚えておきなさい」
 サルバトール博士は、すでにクリストが見つけた出っ張りを押した。
(何を今更。海の悪魔なら、もう見せてもらったよ。)
 サルバトール博士に連れられて、クリストは庭に入っていった。蔦に覆われた家を通り越し、博士は真っ直ぐプールに向かう。
 猿はまだ、ブクブク言いながら水の中に座っていたので、クリストは初めて見たかのように、驚いて見せなければならなかった。
 ところがサルバトール博士は、猿については何も言わず手を振った。ずると猿はプールから飛び出して、木を揺らしながら登っていった。
 博士が草むらの中にあった、小さな緑のボタンを押す。
 地響きがした。
 プールの底でハッチが開き、水が流れ出て行く。プールは数分で空になった。ハッチがバタンと音を立てて閉まると同時に、どこからか、プールの底へと続く鉄の階段が現れた。
「クリスト、私と一緒に来なさい」
 二人がプールの底に降りると、博士は池の真ん中に向かい、縦横一メートルほどの別のハッチを開く。そこにも地下へと続く別の階段があった。
 クリストは博士の後に続いて、地下洞へと下りていった。
 地下洞は深く、ハッチから漏れ入る光はすぐに届かなくなり、あたりは暗闇に包まれる。
「クリスト、もうすぐ着く。つまづかないようにな」
 博士は立ち止まり、壁を手でまさぐった。スイッチの音がカチリとして、人工の光があたりを満たす。
 二人は鍾乳洞の中に立っていた。目の前に、青銅色の扉と、口に輪を咥えたライオンの取っ手がいくつもある。
 その輪の一つを博士が引っ張ると、重い扉は滑らかに開く。中は暗い。もう一度スイッチの音がカチリとすると、最新式の曇りガラスの電球が、壁の一面がガラス張りになっている、狭い洞窟を照らし出した。
 サルバトール博士が灯りをつけ替えると、洞窟は暗がりに戻り、強いサーチライトがガラスの壁の向こう側を照らし出す。
 ガラスの壁は、巨大な水槽だった。いや正確には、ガラスの向こう側は海の底だった。藻や珊瑚の間を、魚たちが戯れている。
 唐突にクリストは、大きな手足で水を掻いている人のようなものが、藻の向こう側にいることに気がついた。輝くメタルブルーの鱗が覆う見たこともない体。頭には大きなガラスの目がついている。
 なぞの生き物は、泳いで素早くガラスの壁までやってくると、サルバトール博士にうなずいてガラスの小部屋に入り、自分で小部屋の扉をバタンと閉めた。するとあっというまに小部屋の水が抜け、謎の生き物は次の扉を開いて、洞窟のこちら側にやってきた。
「眼鏡と手袋を取りなさい」
 博士の言葉に、謎の生き物は素直に従う。
 そして、クリストの目の前に、端整で美しい一人の青年が現れた。
 サルバトール博士が、紹介した。
「イフチアンドル。人魚、正確には両棲人間。海の悪魔とも呼ばれている」
 青年は愛想よく微笑みながら、流暢なスペイン語で挨拶し、クリストに手を差し出した。
「はじめまして!」
 クリストは、無言で手を出して握手した。驚きのあまり何も言えなかった。
「イフチアンドルの世話をしていた黒人が病気になってね、数日間彼の世話を頼みたい。うまくやれたら、お前をイフチアンドルの担当にしよう」
 クリストは無言でうなづいた。

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