(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2003.11.12
2005.1.15 最終更新日

10 イフチアンドルの一日

 夜明けは近かったが、朝の気配は微塵もない。
 木蓮、月下香(げっかこう)、木犀草(もくせいそう)の甘い香りがまじりあった、湿った暖かい空気が満ちていた。
 静寂があたりを覆い、一枚の葉すら微動だにしない。
 イフチアンドルは、カエルのような手袋と足ヒレと、そして短剣をベルトにぶらさげて、庭の中の砂と貝殻を敷いた道を歩いていた。その、砂を踏む足音だけが、そっと響いている。
 道はほとんど目に見えず、木々や藪が、闇の中でぼんやりとした場所を囲んでいる。靄がプールから立ち上っているのだ。
 ときおりイフチアンドルが、枝をひっかけると、髪や温かな頬に露が落ちてきた。
 道が右に折れてて下り坂になったあたりから、さらに空気の湿り気が増し、より新鮮味を帯びてくる。
 イフチアンドルは、足元が石畳になったのを感じて、歩みを遅め立ち止まる。そして厚い水中眼鏡と、手ヒレ、足ヒレを、ゆっくりと身につけると、肺の空気を吐き出して、プールへと飛び込んだ。
 水が体を包み、冷たくて心地よい新鮮な水が、エラを通っていく。エラ穴がリズミカルに動き始め、人は魚となった。
 プールの底で、イフチアンドルは力強く手で水を掻いていく。真の暗闇の中、彼は迷うことなく泳ぎ、手を伸ばして石の壁の掛け金に触れる。ひとつ、二つ、そして三つ目。その向こうは、上に向かう水中トンネルだ。
 イフチアンドルは身を屈めて、冷たい水が流れ出してくるそのトンネルに、身をかがめて入り込む。そして両足を上にして、暖かい風呂に入るように、底から離れて浮上する。
 トンネルから流れ出す水は、庭のプールで温められて、再びトンネルを通って外の海へと流れ出していく。今、イフチアンドルはその流れに乗っていた。仰向けになり、手を胸の上で交差させ、逆さまになって進んでいく。
 トンネルの終わりが近づいてきた。暖かな水の流れが崖の裂け目から噴き出している。そこで流れから脱出する。
 噴き出す水に洗われ、海底の石や貝殻が、さらさら言っている。
 海の底に腹ばいになり、イフチアンドルは先を見る。あたりは暗い。かすかに流れ込んでくる新鮮な水を手がかりに、鉄格子を探す。指先が、柔らかな海藻と、ゴツゴツしたフジツボに覆われた鉄格子に触ると、彼は複雑な錠を操作した。
 トンネルの出口を塞ぐ、円形の鉄格子の扉が、ゆっくりとわずかに開く。彼がその隙間に滑り込むと、その後ろで扉は閉まり始める。
 手足の水かきを使って、両棲人間は海に出た。
 水中はまだ暗い。深部の闇の中で、オウムガイの青白い光の点滅に、クラゲがぼんやりとした赤い光で、返事をしているだけだ。しかし、さしてたたないうちに、夜光性の動物たちは、その灯りを消していく。夜が明けが近づいているのだ。
 イフチアンドルは、エラに何千という、刺すような刺激を感じた。呼吸するほどに、いっそう息が苦しくなる。岩だらけの岬に近づいたからだ。岬のあたりの海水は、いつも砂とアルミ粒子といったもので、濁っているからだ。川が海に流れ込むあたりでは、塩分も少なくなる。
 イフチアンドルは、こんな風に考える。
(なぜ川魚は、こんな水の中で生きていけるんだろう。すごいなぁ。たぶん泥や砂に対してエラが鈍感なんだろうな。)
 彼は、やや上昇してから右に急旋回して南に向かい、そこで下降して、きれいな水域に入る。パラナ川が流れ込むあたりにある、南から北への海岸沿いの海底を通る寒流だ。流れは東に向かっている。この流れは深いけれど、上の方は海面から十五〜二十メートルぐらいだ。
 イフチアンドルは、外海に出ようと、この流れに乗った。暗礁もないし、海の猛獣たちはまだ眠っているから、すこし居眠りをすることができる。日の出前に、気持ちよく一眠りだ。
 肌が水温の変化として、伏流を感じ取っている。耳が、何かがぶつかり合う鈍い音を聞く。もうひとつ、そして三つ目。この雷鳴は、数キロ先の入り江の漁船が、錨を上げる音だ。
 夜明けが近い。
 うんと遠くから、安定した轟きが聞こえてきた。ブエノスアイレスとリヴァプールを運行する、大英帝国の外洋汽船ホロックス号のエンジン音だ。といっても、ホロックス号は四十キロも先にいる。しかし聞こえるのだ! 海水は、毎秒一キロ半も音を伝えるからだ。
 光溢れる海上浮遊都市のような、夜のホロックス号は、どんなに美しいことか! しかしそれを見たいなら、夕方から泳いでいって、夜に到着しなければならない。日の出と同時にブエノスアイレスに向かうホロックス号の灯りは、もう消されてしまっているだろう。
 いやそれよりも、もう居眠りしている場合ではない。ホロックス号のエンジンとスクリューの唸りによって、海の生き物はサーチライトに照らし出されたかのように、目を覚ますからだ。
 たぶんイフチアンドルが気づくより数分も前に、臆病なイルカたちがホロックス号の接近に近づいて、汽船を見物しようと泳ぎだしているはずだ。
 あちこちから、船のエンジン音が聞こえ出し、港と入り江が目覚めていく。
 彼も、頭をふったり手足を動かして、眠気を吹き飛ばす。そしてボートや帆船があたりにいないかと周囲を見回してから、ゆっくりと足を動かして、海峡の上に浮かび上がった。
 白いカモメが、泣いている子どものように叫んでいる。
 イフチアンドルの頭上を、真っ白なアホウドリが、巨大な翼で風に乗って、入り江に向かって飛んでいく。風切羽は黒く、嘴は赤くて先端は黄色い。足はオレンジ色だ。
 イフチアンドルは、羨望の眼差しで鳥を見上げた。翼は広げると、四メートル弱はある。あんな翼があったなら!
 夜は、西の山の向こうへと退けられている。東の空は、すでに紅色。穏やかな海の細波が、金色に染まりつつある。空高く飛んでいく白いカモメも、ピンク色に染まっている。細波の中に、青や紺色の道が描かれる。朝一番の風の道だ。紺色の道が、どんどん増えていく。風が強くなり、クリーム色の羽のような波頭が、砂浜に向かう。海岸近くの海は、すでに緑色だ。
 帆船の釣り舟たちが、船体を組んで近づいて来た。
 人々に見られないようにと、父親に言われているイフチアンドルは、深く潜って冷たい流れを見つける。
 流れは海岸の方から外海に向けて、まだまだ続いている。海の深みは、青と紫の暗闇の世界だ。泳いでいる魚は、薄緑や黒い染みや線に見える。赤や黄色やレモン色や茶色の魚が、蝶のようにごちゃ混ぜになって群れている。
 頭上で轟きが響き、水面に影が落ちる。軍の水上飛行艇が、低空飛行をしているのだ。
 以前、この水上飛行艇が着水していたとき、イフチアンドルが飛行艇のフロートを支える鉄柱を掴んでみたところ、ふいに飛行艇は飛び上がり、彼は十メートルの高さから海に飛び込む羽目になったことがある。

   ***

 イフチアンドルが海面を見上げると、太陽の光が、ほとんど頭上から差していた。そろそろ正午だ。
 砂州や石を映す歪んだ鏡のような水面に、大きな魚のようなイフチアンドルも映っている。鏡は絶えず揺れ動き、それにつれ鏡の中のイフチアンドルも揺れている。
 彼は浮上して波間に浮かび、あたりを見回した。
 波に浮かび揺られ、持ち上げられ、下がり、また上がる。
 オォー! あらゆるものが共に唸っている。
 海岸近くの海は黄緑色に染まり、波が岩に砕け轟いている。
 南西からの鋭い風が吹き始めると、波は次第に大きくなっていく。砕ける波頭は、飛び跳ねる白い子羊のようだ。気持ちのよい波しぶきが、イフチアンドルに覆い被さってくる。
(向かって来る波は暗い青色なのに、通り過ぎると色あせて見えるのは、なぜだろう?)
 波頭から、トビウオが群れをなして跳び出して、百メートルほど飛んで波間に落ち、ふたたび跳び上がる。
 カモメたちが騒ぎ出した。
 フリゲート艦のような鳥が、広い翼で風を切ってすっ飛んでくる。巨大な曲がった嘴、緑に輝く鋭い爪、オレンジ色の喉、こげ茶色の羽。オスのアホウドリだ。
 もう一羽、フリゲート艦がやってくる。白い胸のメスだ。彼女は石のように落ちて海に飛び込み、再び現れた時には曲がった嘴の先端に青く輝く震える小魚を咥えていた。
 アホウドリが飛び立った。嵐が来るのだ。この見事で大胆な鳥は雷雲に向かって飛び、その歌によって立ち向かう。
 魚とりの帆船や、品のいいヨットが、嵐から逃れようと港へ急いでいる。
 緑がかった薄闇の水中からでも、太陽の輝きは大きな明るい斑点として、見ることができる。方角を知るには、それで十分だ。
 雲が太陽を覆う前には、砂州に到着しないといけない。でないと朝食にさよならだ! 本当は、もっと早く行くべきだった。暗くなると、砂州も水中の崖も、どこにあるかわからなくなってしまう。
 イフチアンドルはカエルのように手足を動かして泳ぎ、海を渡っていく。ときどき仰向けになって、厚い青緑色の陰影の向こうに見える太陽で、コースを確認する。時には注意深く、砂州に近づいていないかと前方を透かし見る。
 エラと肌とが、水の変化を感じ取った。
 砂州の近くは水が薄くて、気持ちがいい。塩分が少なくて酸素が濃いのだ。
 イフチアンドルは、水の味を確かめる。彼は、古強者のビジャの海賊のように、海の印を読み取ることができるのだ。
 だんだんと明るさが増してくる。左右にぼんやりと、見覚えのある岩の輪郭が見えてくる。その間にある小さな岩棚を、イフチアンドルは水中集会場と呼んでいる。
 そこは嵐の間もとても静かで、そんな時は沢山の魚たちがやってくる。
 今日も、まるで煮え立つ魚鍋だ!
 小さな魚たち。黒いやつ、黄色のやつ、体の真ん中に黄色の横じまがあって尻尾まで黄色が貫いているやつ、斜めの縞があるやつ、赤いやつ、青いやつ、紺色のやつ……。
 魚たちは突然姿を消し、不意に同じ場所に現れる。上に回っても、横に回っても、下から見上げても、前後に移動してみても、どうなっているのかよくわからない。
 彼は、小さな魚を捕まえてみるまで、ずっと、どうしてそんなふうに見えるのか、不思議だった。実はその小魚たちは紙のように薄くて、それで真正面からだと、この魚はよく見えなかったのだ。
 イフチアンドルは、ここで朝食を取ることにした。
 牡蠣がたくさんいる、垂直な崖の近くの平らな場所に泳いで行くと、彼は横になる。そして貝殻から牡蠣の身を取り出しては口に運ぶ。馴れた手つきで海水と一緒に口の中に放り込み、そして余分な水を唇の隙間から吐き出してやる。多少の海水は飲むことになるが、それは問題ない。
 彼のまわりで、海藻が揺れている。
 青々とした羽のようなメキシコアオサや、やわらかなピンクの藻に、点々とテングサがまじっているはずだけれど、今は黄昏時の雷雨と嵐で、どれも暗い灰色に染まっている。
 時々雷鳴が轟いている。
 イフチアンドルの上に突然影が落ち、彼はどうしたんだろうと、上を見上げる。
 真上に影の主がいる。いったいなんだろう。朝食は終わった。ちょっと海面を見に行ってもいいだろう。
 彼は慎重に、垂直の崖に沿って浮上し、頭上の影に近づくと、海面に巨大なアホウドリが浮かんでいた。すぐそこに、オレンジ色の鳥の足がある。
 イフチアンドルは手を上に伸ばして、アホウドリの足を掴んだ。驚いた鳥は力強く羽ばたいて、彼を引っ張り上げる。けれど彼の体を空中に持ち上げるにはいたらず、アホウドリは胸から彼ごと海に落ちた。
 イフチアンドルは、アホウドリが彼の頭を赤い嘴で突つき始める前に海に潜り、別の場所に浮上した。彼が仰向けに浮かんでいる場所から、いくつか波の山を越えたあたりから、アホウドリは東に向けて飛び去る所だった。
 すでに雷雨が始まっている。東の方に雷が落ちたようだ。イフチアンドルは身を翻したが、バケツを引っくり返したような雨が降ってくると、彼は喜んだ。そして目を閉じ、再び開く。
 波の頂にいると、周りの空と、海と、風と、雲と、スコールと波が……、全てが濡れたボウルの中で交じり合い、轟き、ぶつかり合っているかのように感じる。
 波頭が割れ、苛立たしげに谷間へと崩れ落ちていく。
 天を突き、波が崩れ落ちて轟きを上げると同時に、再び天へと持ち上がる大波は、強風を巻き起こす。それは、陸の人々を脅しつけるが、彼を喜ばせる。
 確かに注意していないと、大波の天辺から谷底へと突き落とされてしまうだろう。しかし彼は出来の悪い魚ではない。こうした波に、どう乗ればいいのかを、よく知っていた。注意しておくことは、頭を上にしているということだ。
 それに風が止んで波が消えるとき、まず小さな波が消えて、次に大きな波が消える。けれど、陸へ向かううねりは、すぐには消えないといったことも、よく知っていた。
 彼は、危険を承知で、陸近くの大波で宙返りするのが好きだった。以前、不意に波に引っくり返され、海底で強く頭を打って、意識を失ったことがある。普通の人なら溺れて死んでしまうだろうが、イフチアンドルなら意識を失っている間、水中で横たわっているだけですんでしまった。
 雨が止んだ。雷雲は東へと移動したようだ。風が変わって、熱帯である北からの暖かい風が吹いてきた。雲の合間に、青空が覗き始める。突如太陽の光が差し、波を打った。まだ暗闇のあたりの手前の薄暗い南東の空に、二重の虹が現れた。
 海は飽きさせない。ただ紺色一色の海に陽が射して、緑色の斑点が現れる。
 太陽だ!
 空も海も海岸も、そして遠くの山々も、一瞬にしてまるで別の物に変化した。
 嵐と雷雨の後の、明るくて湿気の多い空気の、なんと素晴らしいことか!
 イフチアンドルは、肺に気持ちのいい空気を一杯に吸い込み、エラで勢いよく息をし始める。
 人間の中でただ一人、彼だけが嵐の後の海の素晴らしさを知っている。雷と風と雨が、海と空気を混ぜ合わせてくれたからに違いない。海にはたっぷりと酸素が溶け込み、ありとあらゆる魚、そして全ての海の生き物たちが生気にあふれる。
 雷雨と嵐が完全に去ってしまうと、珊瑚や海綿といった群生生物の居住者たちが姿を現し、小魚たちがやってきてより大きな魚から隠れ、そして天気がうんと穏やかならば、様々な柔らいクシクラゲたちの代表や、弱々しいギンカクラゲ、そして透き通ったエビが、無重力の中を漂うかのように、ふわふわと躍り出てくる。
 日差しが波を染めていく。海のいたるところが緑になり、小さなガラス瓶のような泡がきらめく。
 イフチアンドルの友だち……陽気なイタズラ者のイルカたちがやってきて、好奇心一杯の目つきで彼を見る。そしてイルカたちは鼻を鳴らし、互いに追いかけ合いながら彼を取り囲み、イルカたちの黒い背中が、波間に現れたり消えたりする。
 イフチアンドルはイルカにつかまって仲間入りして、海面に出たり潜ったりし始めた。そして、まるでこの海が、イルカたちが、空や太陽が、彼のためにあるかのように笑い出した。

 ***

 イフチアンドルは、目を細めて頭上を見上げた。太陽はすでに西に傾いている。
 もうすぐ日が暮れるけれど、今日はすぐに帰るのが惜しい気がした。
 濃紺の空が暗くなり、星がまたたくまで、波に揺られてみる。けれどすぐに、何もしないことに退屈してきた。
 彼は海面に浮かび、向こうの方の海岸を見た。さして遠くないところで、小さな海の生き物たちが死にかけていて、彼なら救うことができることを思い出す。
 あの砂浜で、助けが求められいる!
 そのあたりの磯波は、荒れ狂っていた。嵐で荒波が押し寄せ、藻や海の生き物を海岸に打ち上げる。クラゲ、カニ、ヒトデ、そして時には不注意なイルカをも。
 クラゲはすぐに死んでしまう。波打ち際のわずかを除けば、魚もいずれ死んでしまう。カニはほとんど自力で海に戻ることができる。けれど実の所、彼らは嵐の犠牲者を食べるために、波打ち際に残るのだ。
 イフチアンドルは、海岸に打ち上げられた海の生き物たちを助けてやることを、気に入っていた。嵐の後のあわ立つ海岸に剃って歩き、まだ生きているものを探して、助けてやる。海に投げ入れた魚が、その尾を楽しげに振って泳いで行くのを見ると、ウキウキした。最初は生気なく腹を見せて浮いていた魚が、ついに生き返って泳ぎだすと、本当に嬉しかった。
 大きな魚を拾い上げ、のたうつ体を海に運びながら、彼は笑顔で話し掛けて慰める。確かにお腹が減っているとき、海でその魚をつかまえたなら、彼は喜んでその魚を食べるだろう。
 しかしそれは、避けることができない必要悪だ。
 今、この海岸での彼は、海に住む友だちを守護する救い主なのだ。
 いつもならイフチアンドルは、ここへ来た時のように、水中の流れを利用して、家に帰る。けれど、今日は水の中に潜ってしまいっぱなしになるのが勿体無いほど、海も空も美しい。彼は海に飛び込み、魚を探す海鳥のように、水中を泳いでから、海面に現れた。
 陽はもう落ちている。西にはまだ黄色い夕焼けが残っている。暗い波、正確に描写するなら、暗い灰色の影の塊が、つぎつぎと押し寄せてくる。
 風にあたって冷えた体を、海の水が暖かく包む。あたりはもう暗いけれど、暗闇というほどではない。彼を害する猛獣たちは、もう眠りについたことだろう。

***

 海面近くを流れる、北から南への海流が必要だ。けれど大半は、南から北への寒流の下にある。
 暖かい北から寒い南に向かう穏やかな水中の川が、水面にうねりを作り出している。
 イフチアンドルは、長い時間かけて海岸沿いに泳ぐこともあるけれど、この流れもよく使う。
 今日は北まで遠出しすぎた。この暖流に乗って、トンネルへ帰ろう。
 彼は、泳ぎはしなかったけれど、居眠りしないように気をつけた。以前それで、行き過ぎたことがある。
 まず頭の後ろで手を組み、それから横に延ばし、最後に姿勢を正す。足を同時に曲げ、そして伸ばす。ゆっくりと、そんな体操をして時間をつぶす。
 流れが彼を、南へと運んでいく。暖かい海水と、ゆっくりとした手足の動きで、気分が落ち着いていく。
 見上げると、小さな星屑が海中にアーチを描いている。灯りを燈した夜光虫たちが、海面へと浮上してきたのだ。
 暗闇のあちこちに、ぼんやりと、薄い青や明るいピンクの塊が見える。それも、ぎっしりと集まった、極小さな夜光性の生き物たちだ。
 柔らかな緑色の光を放つ球体が、ゆっくりと泳いでいく。イフチアンドルのすぐ近くにいるのは、レースの縁取りと長い房飾りのついたランプシェードそのままの、輝くクラゲだ。クラゲの動きにつれて、そよ風に揺らいでいるかのように、房飾りもゆっくりと動いている。
 砂州のヒトデも灯りを燈した。深みでは、夜の猛獣たちの灯りが、素早く動いている。それらは互いを追い回し、灯りが消え、そして再びパッと燃え上がる。
 次の砂州では、サンゴが方々に伸ばした枝を、青やピンク、緑、白い灯りで、内側から照らし出しているかのようだ。みんなで一緒に青白い炎を点滅させているものや、白熱した金属のようなサンゴもある。
 地上から眺めることができるのは、遠い小さな空の星だけだ。けれどもここには千の星があり、何千もの月があり、小さく柔らかく優しく輝く様々な色の千の太陽がある。それは地上から眺める夜空とは、比較にならないほど素晴らしい。
 イフチアンドルは、比べてみようと海面に浮上した。空気が暖かくなっている。頭上の濃紺の空に星がアーチを描いている。水平線の上に銀色の円盤のような月が昇り、月から銀色の道が、海の上に伸びている。
 低く重い音の汽笛が、港の方から聞こえてくる。あの非凡なるホロックス号の帰還の知らせだ。
 ということは、かなり遅くなってしまったということだ! まもなく夜明けがやってくる。
 イフチアンドルは、ほとんど二十四時間家を空けてしまった。父親に説教されるに違いない。
 彼はトンネルに向かい、鉄格子の隙間に手を突っ込んでそれを開けると、真っ暗闇の中を流されながら泳いで行く。この帰り道は、海から庭の池に冷たい水を引き込むためのものだ。
 腕に感じる軽い圧力が、彼を眠りから引き戻す。池までやってくると彼は急いで浮上して、そして肺でなじみの匂いがいりまじった空気を呼吸しはじめる。
 数分後、彼は父親の言いつけられていたことを守り、ベッドに潜り込んでいた。

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