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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2004.04.22
2005.1.15
2023.10 最終更新日

第十四章  海へ帰る

 イフチアンドルは、あえぎながら海岸に沿ってひたすら走った。この恐ろしい町を抜け出すと、すぐに道を外れて海岸に急ぐ。そして海岸の岩影に身を隠し、辺りを見回すと背広を素早く脱いで岩の隙間に隠し、水際に駆け寄り海に飛び込んだ。
 疲れていたけれど、こんなに速く泳いだことはなかった。
 怯えた魚たちが彼から逃げ出していく。
 町から数マイル泳いだ後、イフチアンドルは浮上し、海岸に近づいた。
 イフチアンドルは、我が家に帰ってきたように感じていた。海の中の岩も海溝も、彼にとってなじみ深いものだった。このあたりの砂地には、ヒラメの生息地が広がっている。その先には赤いサンゴの茂みがあり、小さな赤いヒレの魚が隠れ住んでいる。灰色の石の下には、カニがいる。イフチアンドルは、飽きることなく何時間も海の生き物たちを眺め続けるのが好きだった。彼らの狩りが成功したときの小さな喜びや、爪を失ったりタコに襲われた時の悲しみを知っていた。そして海岸近くの岩には、牡蠣がたくさんいる。
 最後に入り江からそう離れていない場所で、イフチアンドルは海上に顔を出し、イルカの群れが波間で遊んでいるのを見て、大声で長く叫んだ。大きなイルカが、陽気に鼻を鳴らして水中に潜り、再びツヤツヤした黒い背中を現す。
「早く、リーディング、早く!」イフチアンドルは泳ぎながら叫ぶと、イルカをつかまえる。「さあ、早く行こう!」
 イルカは彼の手振りに従って、風と波を蹴立ながら大海原へ向かって素早く泳ぎ出した。
 泡を立て、胸は波を切って突進したけれど、イフチアンドルはそのスピードに満足できなかった。
「リーディング、もっと速く速く!」
 イフチアンドルはイルカを完全に乗りこなしていたけれど、波上の乗馬は気分を落ち着かせてはくれなかった。彼は突然光沢のある背中から滑り落ち、当惑する友人を残し海に潜る。
 リーディングはしばらく待っていたが、鼻を鳴らして潜り、浮上し、不機嫌そうにまた鼻を鳴らし、そして尾を振って向きを換え、ときどき振り返りながら岸に向かった。けれど友人は海面に現れず、リーディングは若いイルカたちの群れに加わった。
 一方イフチアンドルは、暗い海の底へと、深く深く潜っていった。一人っきりになって、ショックから立ち直り、その日見たり聞いたりした様々な出来事を、理解しようとした。
 彼は危険をかえりみず、闇雲に泳いだ。なぜ自分が他の人々と違うのか、海でも陸でも異質な存在なのかを、理解しようとした。
 彼はひたすら潜っていく。彼に迫る水圧が高くなり、呼吸が困難になっていく。あたりは、濃い緑灰色の黄昏だ。海の生き物の姿は少なくなり、いても大半に馴染みがなかった。
 これほど深く潜ったことは、一度もない。突然イフチアンドルは、この静かで平和な黄昏の世界が怖くなった。急いで海面まで浮上し、岸に向かって泳ぐ。
 沈みつつある太陽の茜色の光が、海の中まで差している。水中ではこれらの光が紺色の水と混じり合い、優しい桃色がかったすみれ色や、緑がかった青にきらめいている。
 イフチアンドルは水中眼鏡をかけていなかったので、魚のように海面を見上げた。
 下から見ると、海面は平らではなく、まるで巨大な漏斗の底にいるような円錐に見えた。円錐の端は、赤・黄・緑青・紫の境界線で囲まれているようだ。円錐の向こうには光る海面があり、そこには岩・藻・魚などが、逆さまに映し出されている。イフチアンドルは仰向けのまま海岸に向かい、浅瀬に近い海中の岩の谷間に座りこんだ。
 漁師たちがボートから下りて海に入り、ボートを海岸に引き上げている。そのうち一人は、膝まで海に浸かっている。
 イフチアンドルの目には、海上の足のない漁師と、海中の足と海面に映ったその反転が映っている。
 別の漁師が肩まで海につかる。今度は、頭のない四本足の奇妙な生き物が海の中に現れる。まるで首を切り落とされた二人の同一人物の片方が、もう一人の肩に置かれたように見えた。男たちが海岸に近づくと、イフチアンドルは魚のように男たちを見た。岸に近づく前に、頭からつま先まで見えるのだ。だから彼は、人に見つかる前に泳いで逃げることができた。
けれど今日は、体のない頭と、頭のない身体と、胴体のない頭が、イフチアンドルには気持ち悪く見えた。
 人間たち……。騒々しく、ひどい葉巻を吸い、悪臭をまき散らす。イルカの方がずっと良い。イルカは陽気で清潔だ、
 イフチアンドルは、ふと、前にイルカの乳を飲んだ時のことを思い出して、微笑んだ。
 それは南にずいぶんと下った所にある、人里はなれた小さな入り江のできことだ。
 その入り江は、鋭い水中の岩と砂嘴によって、船が入れない場所にある。海岸も、険しい岩だらけだ。だから漁師も真珠採りもやって来ない。水深はあまり深くなく、海底は海草の絨毯で覆われている。海水は温かく、魚がたくさんいる。
 メスイルカが何年も続けて、この暖かい入り江で二頭か四頭か、時には六頭もの子どもを産む。
 イフチアンドルは、イルカの子どもたちを見るのが楽しくて、海藻の茂みの中にじっと隠れて何時間もイルカたちを観察した。赤ちゃんイルカたちは、水面で跳ね回ったり、口先でお互いを押し合いながら、母親の乳首を吸っていた。
 彼は、注意深くイルカたちを慣らし始めた。
 魚を捕まえては、イルカに与えると、少しづつイルカの母子は、イフチアンドルに慣れていった。彼が美味しい小魚や好物の小さくて柔らかいタコを持って入り江に現れると、遠くにいてもすぐに集まってくるようになった。やがて彼は子どもたちを捕まえたり、投げたり、引っ張ったりして、遊ぶようになった。
 そして馴染みのメスイルカに子供が産まれ、その子がまだ小さな乳飲み子で、乳以外まだ何も食べなかったとき、イフチアンドルはふと思いついた。
(イルカの乳を味見してみたらどうだろう?)
 そして即座に母イルカの下に潜り込むと、彼女を抱えて乳房をくわえ、乳を吸ってみた。
 母イルカは、まさかそんな目に合うとは思わなかったのだろう。驚きのあまり入り江から逃げ出してしまった。
 彼はすぐさま怯える母イルカから手を離した。母イルカは、どこかの海底に潜り、子イルカは混乱して散り散りなった。
 イフチアンドルは苦労して赤ん坊たちを集め、母イルカが戻ってきて赤ん坊たちと一緒に隣の入り江に引っ越すまで、その世話をしなければならなかったし、そのイルカの家族の信頼と友情を取り戻すためには、さらに何日も必要だった。
 イルカの乳は、魚臭かった。

 あれからイフチアンドルは、三日も家に戻らなかったので、クリストは本気で心配した。
 やっと帰ってきた彼は、顔色も悪く疲れきっていたものの、落ち着いた様子だった。
「どこへ行ってたんで?」
 クリストは厳しい調子で問い詰めたものの、イフチアンドルが帰ってきた嬉しさを、隠し切れないでいる。
「海底だよ」
「なんでそんなに顔色が悪いんです」
「僕は……、死にそうな目にあったんだ」
 イフチアンドルは初めて嘘をつき、昔彼が体験したことを語り始めた。

 深い海の底から隆起した岩の台地があり、その上の真ん中は楕円形に窪んでいた。つまり海底の山中湖だ。
 イフチアンドルはその水中湖の上を泳いでいた。海底が、見たこともない明るい灰色だったので、珍しさから彼は下へ降りていって驚いた。そこは小さな魚からサメやイルカまで様々な海の生き物が横たわる墓場だったからだ。最近の犠牲者の姿もあったが、普通ならいるはずの小さな捕食者、カニや魚たちが群がっているわけでもない。すべては命を失い、動かなくなっていた。
 あちこちで、海底から海面に向けて、小さな気泡が立ち上っている。
 イフチアンドルが、窪地の端を泳いで越え降りていくと、突然エラに鋭い痛みを感じ、息がつまり、目まいがした。意識が朦朧として、力が出ず、ついには窪地の端に沈んでしまった。
 こめかみがドクドクし、心臓は高鳴り、視界は赤い霧で曇っていく。誰もおらず、助けが期待できるはずもない。
 突然、サメが痙攣しながら彼の隣に降りてきたことに気がついた。おそらくサメは、イフチアンドルがこの死の湖に落ちるまで、後をつけていたに違いない。そして今は、開いた口から白い歯をむき出しにしたまま底に落ち、その腹を膨らませて横たわる。サメは死にかけていた。
 イフチアンドルは、恐怖に震えた。イフチアンドルは歯を食いしばってエラに水を入れないようにしながら湖から這い上がり、立ち上がって歩こうとしたが、頭がクラクラして再び倒れた。それから灰色の石を両足で蹴り、手を振り回し、なんとか湖から十メートルばかり離れることができた……。

 話の仕上げに、イフチアンドルはサルバトールから聞いた話を付け加えた。
「たぶん、この海中湖には、硫化水素か無水炭酸みたいな有害なガスが溜まってるんだと思う。知ってると思うけど、こうしたガスは海面に出るころには酸化して無害になる。けど、海中湖から湧き出た直後は、濃くて毒性が強いんだよ。それより朝食にしてくれないかな。僕はお腹が空いてるんだ」
 イフチアンドルは急いで朝食を食べると、水中眼鏡と手袋をはめて、出て行こうとする。
「それのためだけに、戻ってきたんですか?」クリストは、水中眼鏡を指差した。「何か言いたくない悩みがあるんじゃないんですかい?」
 その時イフチアンドルは、秘密主義者になった。
「クリスト、聞かないで。僕には何が問題なのか、わからないよ」
 そして彼は足早に部屋を出ていった。

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