(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2004.04.22
2005.1.15 最終更新日

14 海に戻る

 イフチアンドルは、あえぎながら海岸通りをひた走り、息苦しい都会を抜け出すと、すぐに道を外れて海岸に急いだ。そして海岸の岩影でスーツを脱ぎ岩の隙間に隠すと、水際に駆け寄り飛び込んだ。
 疲れていたが、こんなに急いで泳いだことはなかった。恐れをなした魚たちが、彼の進路からパッと散っていく。町から数マイル離れてからスピードを落とし、海岸の近くの水面に出て、やっと自分の場所に戻ってきたと実感できた。
 海中に、見慣れた岩や海溝がある。アカガレイが砂に潜っているし、赤いサンゴの枝の中には、赤いヒレの小魚が隠れ住んでいる。沈んだ艀船には、タコがふた家族ほど住み着いて子育てをしている。カニが海底で、灰色の石の下に入ったり出たりしている。
 彼は何時間も、飽きることなく海の生き物たちを眺め続け、彼らの狩りの小さな幸運や、あるいはハサミを失ったりタコに襲われたりする不運を、自分のことのように喜んだり悲しんだりした。
 それから沢山の牡蠣殻がくっついている沖合いの崖に向かい、最後に入り江に行って、海辺からそう離れていない場所で海上に顔を出し、波間で遊んでいるイルカの群れを見つけて、高い声を長く出して叫んだ。
 大きなイルカの友だちが、陽気に鼻を鳴らして水中に潜り、すぐさまツヤツヤした黒い背中を現しながら潮を吹く。
「早く、リーディング、早く!」
 イフチアンドルは叫ぶと、イルカに向かって泳ぎ出し、そしてまたがった。
「今すぐどこかへ出かけよう!」
 イルカは彼の手振りに従って、猛然と風と波を蹴立ながら入り江の外へ向かって泳ぎ出した。胸は波を切り尾は後方に泡を作り出したが、イフチアンドルはそのスピードに満足できなかった。
「リーディング、もっと早く!」
 イフチアンドルはイルカを完全に乗りこなしていたが、波上の乗馬は気分を落ち着かせてはくれなかった。
 彼は突然光沢のある背中から滑り落ち、当惑する友人を残し海に潜る。
 リーディングはしばらく待っていたが、両棲の友だちはいつまでも海面に現れなかったので、鼻を鳴らして海に潜り、また現れてもう一つ寂しげに鼻を鳴らした。そして尾をふって海岸に向きを変え、楽しそうに若いイルカたちの群れに戻っていった。
 一方イフチアンドルは、暗い海の底へと、深く深く潜っていた。危険を顧みず、ただ泳ぎ続けた。一人っきりになりたいと思うほどに、その日見たり聞いたりした様々な出来事は、彼の常識を揺さぶっていた。
 なぜ自分のような両棲人間は、海にも陸にもいないのだろうか。
 だんだんと動きが鈍ってくる。水圧がますます高くなり、息が苦しくなってくる。あたりはすでに、分厚い緑灰色でできた、黄昏の世界だ。生き物の姿は少なく、いても大半に馴染みがなかった。これほど深く潜ったことは、一度もない。
 突然イフチアンドルは、この静かで平和な黄昏の世界に心細さを感じ、急いで浮上し、海面に浮かんだ。
 沈みつつある太陽が、海面に茜色の光を落としている。水中では茜色のすじが海の紺色と交じり合い、優しい桃色がかったすみれ色や、緑がかった青にきらめいている。
 水中眼鏡がないため、水中から見上げた海面は金魚鉢のように歪んで見えた。赤や黄色、緑、青色と紫によって縁取られたじょうごの底にいるかのようだ。円錐が明るい水面に向かってくちを開け、鏡のように水中の崖や藻や魚をさかさまに映し出している。
 イフチアンドルは仰向けのまま海岸に向かい、そして砂浜に程近い水中の谷間に座りこんだ。
 漁師が浜にボートを引き上げるために引っ張っるために、その一人が膝まで水に浸かっている。
 彼の目には、足と水面に映ったその反転と、足がない漁師とに、別々に映っている。
 別の漁師が、腕を水中に浸した。今度は頭のない四本足のおかしな体と、独立した一組の腕だけになる。
 イフチアンドルは、いつでも人々が彼を見つける前に、その場から泳いで去ることができた。こうした魚眼レンズを通して見るような、引き伸ばされた水面の反射で近づく人々を見ることができるからだ。
 けれど今日彼の目に映る体のない頭と、頭のない四本足の姿が、ひどく不快だった。
 人間たち……。騒々しく、葉巻で嫌な匂いを作り出す。
 陽気で清潔なイルカと一緒にいる方が、ずっといい。
 イフチアンドルは、ふと、前にイルカの乳を飲んだ時のことを思い出して、微笑んだ。
 それは南にずいぶんと下った所にある、人里はなれた小さな入り江のできことだ。
 その入り江は、外海とは鋭い岩と大きな砂の帯状の暗礁で隔てられ、陸地側は岩だらけの崖で囲まれているため、真珠採りも漁師もやって来なかった。水深はあまり深くなく、暖かい水の中では、海底から海草の絨毯が密生し、その間をたくさんの小魚たちが、行きつ戻りつしながら機を織っている。
 ここには毎年イルカのメスたちがやってくる。そして、この暖かな入り江で二頭か四頭か、時には六頭もの子どもを産み育てる。
 イフチアンドルは、イルカの子どもたちと遊ぶのが大好きだ。そのためにはまず、何時間も海草の林の中にじっと潜み、子どもたちが波間で跳ね回ったり、乳を吸うために母イルカを追いかけるのを見守り、そして慎重に、小さな魚をあげながら親子を自分に慣らしていく。そのうち子イルカたちと追いかけっこをしたり、引っぱりっこをして遊ぶことができるようになる。
 やがて彼が美味しい小魚や小さくて柔らかいタコを持って入り江に現れるだけで、遠くにいても子イルカたちは彼に気づいて集まってくるようになるのだ。
 そして以前、友だちのメスイルカに子供が生まれて、その子がまだ小さな乳飲み子で、乳以外まだ何も食べなかったとき、彼はふとイルカの乳を味見してみようと思いついて、即座に母イルカの下に潜り込むと、彼女を抱えて乳房をくわえ、乳を吸ってみたのだ。
 母イルカは、まさかそんな目に合うとは思わなかったのだろう。驚きのあまり逃げ出したので、彼はすぐさま怯える母イルカから手を離した。母イルカは、パニックを起こして入り江を飛び出し、赤ん坊たちも散り散りになってしまった。
 彼は苦労して赤ん坊たちを集め、母イルカが戻ってきて、赤ん坊たちと一緒に隣の入り江に引っ越すまで、その世話をしなければならなかったし、そのイルカの家族の信頼を取り戻すためには、さらに何日もかかったのだ。
 イルカの乳は、魚臭かった。

 ***

 あれからイフチアンドルは、三日の間家に戻らなかったので、クリストは本気で心配した。
 やっと帰ってきた彼は、顔色も悪く疲れきっていたものの、落ち着いた様子だった。
「どこへ行ってたんで?」
 クリストは厳しい調子で問い詰めたものの、イフチアンドルが帰ってきた嬉しさを、隠し切れないでいる。
「海底だよ」
「なんでそんなに顔色が悪いんです」
「僕……、僕は……、死にそうな目にあったんだ」
 イフチアンドルは初めて嘘をつき、昔彼が体験した冒険の話を始めた。

 深い海の底から隆起した岩の台地があり、その上の真ん中は楕円形に窪んでいた。つまり海底の山中湖だ。
 イフチアンドルはその水中湖の上を泳いでいた。
 海底が、見たこともない明るい灰色だったので、珍しさから彼は下へ降りていって驚いた。そこは様々な海の生き物の、小さな魚からサメやイルカまでもが横たわる墓場だったからだ。
 最近の犠牲者の姿もあったが、普通ならいるはずの小さな捕食者、カニや魚たちが群がっているわけでもない。
 すべては命を失い、静寂に包まれている。
 あちこちで、海底から海面に向けて、小さな気泡が立ち上っているだけだ。
 湖の縁の上を泳いでいたイフチアンドルは、降りていくと突然えらに鋭い痛みを感じ、息ができず眩暈もした。意識が朦朧として、どうすることもできずに海盆の縁に落ちていった。こめかみがドキドキと脈を打ち、視界は赤い霧で曇ってしまった。
 誰もおらず、助けが期待できるはずもない。
 突然サメが、痙攣を起こしたように体を曲げて、すぐ近くを落ちていった。おそらくサメは、イフチアンドルがこの死の湖に落ちるまで、後をつけていたに違いない。そして今は、開いた口から白い歯をむき出しにしたまま底に落ち、その腹を膨らませて横たわる。
 サメは死んだ。
 イフチアンドルは、恐怖に震えた。
 歯を食いしばってエラに水を入れないようにし、全ての手足を踏ん張って湖から這い上がろうとした。
 頭がクラクラして、再び底へと落ちてしまった。けれど灰色の石を両足で蹴り、手を振り回し、なんとか湖から十メートルばかり離れることができたのだ。

 話の仕上げに、イフチアンドルはサルバトール博士から聞いた話を付け加えた。
「たぶん、この海中湖には、いろんな有毒ガス、たぶん硫化水素か二酸化炭素が溜まってるんだと思う。ガスは海面に出るころには酸化して無害になるけど、海中湖から湧き出た直後は、濃くて毒性が強いんだよ。
 それより朝食にしてくれないかな。僕はお腹が空いてるんだ」
 イフチアンドルは急いで朝食を食べると、水中眼鏡と手袋をはめて、出て行こうとする。
「それのためだけに、戻ってきたんですか?」クリストは、水中眼鏡を指差した。「何か悩みがあるんじゃないんですかい?」
 けれどもう、イフチアンドルの心はここにはなかった。
「クリスト、聞かないでよ。僕にもわからないんだ」
 そして彼は急いで部屋を出ていった。

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