(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2004.04.24 
2005.1.15 最終更新日

15 ささやかな仕返し

 イフチアンドルは、バルタザールの真珠屋で、思いがけず青い目の娘に出会ったとたんに、店から飛び出し海まで逃げ出すほど、うろたえてしまった。
 彼女にもう一度会いたいと思いはするものの、会ってどうしたいのかは、わからなかった。
 クリストに、もう一度連れていって欲しいと頼むことができれば簡単だ。けれどクリストと一緒に彼女に会うとを考えると、なんだか気が重かった。
 イフチアンドルは、毎日初めて彼女に出会った海岸へと泳いで行き、朝から晩まで岩影に座り込むようになった。海岸までは泳ぎ、彼女を怖がらせないようにと、水中眼鏡と手袋を脱いで白いスーツに着替るのだ。
 それは度々、夜通しとなった。夜は海に入って魚や牡蠣を食べ、まんじりともせずに朝を向かえて、そのままいつもの場所に戻っていく。
 ある日の夕方、ついに真珠屋に行こうと決意した。そして店の扉を開けはしたものの、店先に年配の男が座っているのを見ると、そのまま海岸へと引き返した。
 すると海岸の岩場に、白いワンピースと麦藁帽子の彼女が立ってたのだ。
 イフチアンドルは、近づくこともできずに立ち止まった。
 彼女は誰かを待っている様子で、行ったり来たりしながら、時おり道の向こうを眺めている。そして岩陰のイフチアンドルには気づかぬまま、彼女は誰かに手を振った。
 見ると、背が高く肩幅の広い若い男が、颯爽と道をやって来るところだった。イフチアンドルが見たこともないほど、明るい色の髪と目をした男だ。
 大男は彼女に近づき、大きな手を彼女に伸ばし、優しく呼びかけた。
しく呼びかけた。
「やあ、どうだい? グッチエーレ」
「ええ、オルセン」
 オルセンと呼ばれた見知らぬ男が、グッチエーレの小さな手をしっかりと握ったとたん、イフチアンドルの中に怒りが湧き上がった。そして同時に、もう少しで泣きそうになった。
「それを持ってきたのかい?」と、オルセンはグッチエーレの真珠のネックレスを見る。
 グッチエーレは、黙ってうなずいた。
「お父さんが、気づくんじゃないか?」
 オルセンの質問に、彼女はいいえと答えた。
「これは私の真珠だから、私の好きにするわ」
 それからオルセンとグッチエーレは、小声で話しながら、岬の先端へと歩いて行くと、彼女は真珠のネックレスをはずし、その端を持って高く陽に掲げ、誉めそやした。
「見て。真珠に夕日が照り映えているわ。さぁ、どうぞ……」
 オルセンがネックレスに手を伸ばす。けれどネックレスは、グッチエーレの手から滑り落ち、海に落ちて沈んでしまった。
「なんてこと!」と、彼女は叫んだ。
 オルセンは狼狽し、グッチエーレは立ちすくむ。
「拾えるかもしれない」と、オルセンが言った。
「ここはとっても深いのよ。オルセン、どうしましょう!」
 イフチアンドルは、彼女の悲しみを無視することができなかった。彼女が嘆き悲しんでいるのを見ると、彼女が真珠を明るい髪の大男にあげようとしていたことも忘れ、岩陰から出てグッチエーレに近づいた。
 オルセンは眉をひそめたが、グッチエーレは彼が先日店から飛び出して行った青年であることに気がついて驚き、そして興味と期待の眼差しを向けた。
「海に真珠のネックレスを落としたんでしょう? よかったら、僕が取ってきてあげますよ」
 彼女は即座に反対した。
「一番の真珠採りの私の父にだって、ここには潜れないわ」
「やってみますよ」
 そう穏やかにイフチアンドルは答えると、いきなり高い崖の上から服を着たまま波間に飛び込み、グッチエーレとその連れを驚かせた。
 オルセンは、あっけにとられている。
「今の誰だい? なぜここから飛び込めるんだ?」
 そして一分たち、二分たったが、イフチアンドルは戻ってこない。
 グッチエーレは波を見つめながら慄いた。
「死んでしまったんだわ」
 一方イフチアンドルは、自分が水の中で生きていけることを、彼女に知られたくなかったので、しばらくネックレスを探してから浮上した。けれど、時間はちゃんと計っていなかったし、すでに真珠採りが潜っていられる以上の時間が立っていたことなど、知るよしもなかった。
 彼は微笑みながらグッチエーれに呼びかけた。
「もうちょっと待って下さい。このあたりの海底は岩が多くて探しにくいんです。でも僕はきっと見つけますから」
 そして彼は、再び潜っていった。
 グッチエーレは、真珠採りのことを、よく知っていてからこそ、イフチアンドルの様子を見てさらに驚いた。彼はほぼ二分間水中にいたのに、まるで息が乱れていない。
 また二分がたち、イフチアンドルが水面に現れると、喜びに満ちた顔で、手を水から上げてネックレスを示して見せる。
「崖のでっぱりに、引っ掛かっていました」と、彼は叫んだ。
 彼の息は、まるで隣の部屋にネックレスを取りに行って来たかのように、少しも乱れていない。
「下まで落ちてしまってたら、もっと大変だったと思います」
 そして彼は急いで岩を這い登り、グッチエーレにネックレスを差し出した。服から水が滴り落ちているが、気にしていない。
「どうぞ」
「ありがとう」と、グッチエーレは言い、そして好奇心をよみがえらせて彼をじっと見た。
 沈黙が降りた。
 三人とも、次にどうしたらいいのか、わからなかった。
 グッチエーレは、イフチアンドルの目の前で、オルセンにネックレスを渡すのを、ためらっているようだった。
 イフチアンドルはオルセンを指差した。
「あなたは彼に、真珠をあげたかったんでしょ?」
 オルセンが赤くなり、グッチエーレは戸惑った。
「ええ、そうだったわ」
 オルセンは無言でネックレスを受け取り、それをポケットへと仕舞いこんだ。
 イフチアンドルは満足した。これはささやかな、仕返しなのだ。この大男はグッチエーレから真珠の贈り物を貰ったが、それはイフチアンドルのおかげなのだ。
 そしてイフチアンドルは彼女にお辞儀をすると、道の方にさっさと歩いて二人から離れた。けれど、愉快な気分はすぐに消えてしまった。あの金髪の大男が何者なのか、気になりだしたからだ。
 町には、嫌な人々ばかりいる。いったい金髪の大男は何者で、グッチエーレはどうしてネックレスをあげようとしていたのだろう。岬の上で何を話していたのだろう?
 その夜イフチアンドルは、波を切ってイルカを乗り回したので、漁師たちは暗闇に響く叫び声に恐れ慄いた。そして翌日は水中眼鏡だけで、手袋をつけず、真珠貝を探して一日中潜ったまま海の底を掘り、夜になってやっと家に帰り、クリストに小言を言われた。
 翌朝、グッチエーレとオルセンが出会っていた岬に出かけ、ずっと待った。
 そして日が沈んだ後になって、ついにグッチエーレがやってきた。
 イフチアンドルは岩陰から離れて、彼女に近づく。
 彼を見たとたん、グッチエーレは微笑みながらうなずいて、そして尋ねた。
「私のあとをつけているの?」
「ええ」と、イフチアンドルは答えた。「初めて会ったときから」そして彼は少し言いよどみ、そして続けた。「オルセンに、あなたのネックレスをあげていましたよね。でもあなたは、彼にあげるまえに、あなたは真珠をじっと見つめていました。真珠が好きなんですか?」
「ええ」
「じゃあ、僕の贈り物を受け取ってください」
 そして彼は真珠を差し出した。
 グッチエーレは、真珠の価値をよく知っていた。今イフチアンドルの手の中にある真珠は、これまでに見た物のどれよりも、彼女の父から聞いたどれよりも、素晴らしかった。その純白で完璧な形をした二百カラットを越える大粒の真珠は、おそらく百万ペソ以上の値打ちがあるはずだ。
 グッチエーレは驚き、そのとんでもない真珠を、そして目の前に立っている美しい青年を、じっと見た。
 強くてしなやかで、ちょっと内気で、皺だらけの白いスーツを着ている。ブエノスアイレスの金持ちの息子のようには、見えはしない。
 そして見知らぬ自分に、こんなプレゼントをしようとしている。
 イフチアンドルは繰り返した。
「どうぞ」
「だめ」と、グッチエーレは首を振った。「そんなすごい贈り物は貰えないわ」
「これはそんなにすごい贈り物じゃありません」イフチアンドルは、一生懸命否定した。「こんな真珠、海の底には何千もあるんです」
 グッチエーレは微笑んだ。
 困惑したイフチアンドルは、しばらく黙り込んで頬を染めた。
「どうか」
「だめ」
 イフチアンドルは、眉をひそめた。不機嫌な様子であった。
「自分のためにいらないなら、オルセンのためにどうぞ。それならいいでしょう」
 グッチエーレが怒ってきっぱりと言った。
「彼は自分のために欲しいんじゃないわ。あなたは何も知らないのよ」
「じゃあ、だめなんですね」
「だめよ」
 イフチアンドルは真珠を海に投げ捨てると、うなだれて背を向け、道に向かって歩き出した。
 グッチエーレは肝を潰し、立ちすくんだ。百万もの価値がある富を、まるで小石のように投げ捨てるとは! 自分はそんなにも、この不思議な青年を悲観させたのだろうか?
「まって、どこへ行くの?」
 しかしイフチアンドルは、うつむいたまま歩き続ける。
 グッチエーレは彼を追い抜き、彼の手を取ってその顔を覗き見た。
 若者の頬を涙が濡らしていた。
 彼は今まで泣いた事がなく、なぜあたりが水中眼鏡をしないで泳いでいるときのように、ぼやけて見えるのだろうと、そんなことを考えていた。
「許してね。私はあなたを傷つけるつもりはなかったの」
 彼女は彼の両手を取って、そう言った。

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