(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2004.04.27

16 苛立つズリタ

 それからというものの、イフチアンドルは日暮れが近づくと町からさほど遠くない海岸に向った。そして岩の隙間に隠してあるスーツに着替え、岬でグッチエーレに会い、喋りをしながら海岸を散歩した。
 けれどグッチエーレは、彼女の新しい友だちは誰なのか? という聞かれたとしても、答えることができなかった。
 イフチアンドルは良識があり、独創的で、彼女の知らないことをいろいろ知っていた。けれど彼は、この町の若者なら誰でも知っているような常識を、まるで知らなかった。
 これはいったい、どういうことなのだろう。
 グッチエーレが知っているのは、イフチアンドルが金持ちの医者の息子であることと、人里離れた土地で、偏った教育を授けられながら父親に育てられたらしい、ということだけだ。
 イフチアンドルは、グッチエーレに本当のことを知らるのが怖くて、自分のことを話そうとしなかった。
 二人はよく、長い間潮騒と星の輝きに満たされた海岸で、黙って座り込んでいた。
 ただそれだけで、イフチアンドルは幸せだった。
 けれど、グッチエーレが「もういかなくっちゃ」と言うと、イフチアンドルはしぶしぶ立ち上がる。そして町外れまで彼女を送ってから、服を着替えて家に泳いで帰っていく。
 イフチアンドルはその日の朝、朝食の後で白パンを持って入り江に行った。そして海底の砂の上に座って、小魚にパンを与え始めた。小魚たちはイフチアンドルを取り囲み、手の中で遊び、手の中のパンに直接貪りつく。ときどき大きな魚がやってきて小魚を追い立てると、彼は手を振って大きな魚を追い払い、小さな小さな魚たちを自分の背後に庇ってやる。
 それから真珠を探した。真珠採りは結構面白く、間もなく素晴らしい真珠が山と集まった。彼は海中の小さな洞窟に、集めた真珠を溜め込んでいる。イフチアンドルは自分でも知らないうちに、実に穏やかにアルゼンチンで一番の、いやもしかすると南アメリカで一番の大金持ちになっていたが、財産についてはまるで無頓着だった。
 日中はこうして静かにすごした。
 イフチアンドルには、グッチエーレが埃っぽくて息がつまりそうな騒々しい町中に住んでいることが、残念でならなかった。
 もし彼女が、騒音と人間たちから遠く隔てられた水中で暮らせたなら! 彼女が見たことのない素晴らしい水中の花園を一緒に散歩できたなら、どんなにいいだろう! けれど彼女は水中で生きることができず、自分もそう長くは空気中にはいられない。
 彼はすでに、己の行為の代償を支払っていた。彼が彼女と海岸に座っている間にも、彼のわき腹は痛み始め、それはどんどん頻繁に、そして強くなってきつつある。しかしどんなに傷みが耐えがたくなっても、彼は彼女を置き去りにはしなかった。
 もう一つ、イフチアンドルには悩みがある。あのオルセンという時金髪の大男は、グッチエーレと何を話していたのだろう。けれどイフチアンドルは、彼女に嫌われるのが怖くて、そのことを聞けなかった。
 ある晩、明日は来れないと、彼女は言った。
「なぜ?」
 イフチアンドルは眉をひそめた。
「忙しいの」
「僕より大事なこと?」
 彼女は微笑んだ。
「聞いてはだめ」
 そしてはっきりと、つけくわえた。
「ついてきてはだめよ」

 その日イフチアンドルは、海の中の苔むした石の上で一人寂しく一夜をすごし、夜明けになってから家に向かった。
 すると、入り江の近くで、漁師たちがボートからイルカを撃っている。
 大きなイルカが銃弾に跳ね上がり、水面に落ちた。
「リーディング!」
 恐ろしさのあまりイフチアンドルは小さく叫ぶ。
 漁師の一人が、傷ついたイルカが浮いてきたら捕まえようと、ボートから海に飛び込み待ち構える。けれどイルカは、捕り手から百メートルも離れた場所に姿を現し、苦しそうに息をして、再び水中に潜っていった。
 漁師は急いで、イルカに向かって泳いでいく。
 友だちを助けようと、イフチアンドルも、急いで向かう。
 再びイルカが水面に現れると、漁師は力尽きたイルカを掴み、ボートに引っ張り始めた。
 イフチアンドルは泳いで水中から近づき、漁師を追い越すと、いきなり彼の足に噛みついた。
 漁師はサメに噛みつかれたと思い込み、必死で足を引き、手にしたナイフをデタラメに振り回して敵を撃退しようとした。
 ナイフは、イフチアンドルの、鱗に覆われていない首を切った。彼が漁師の足を放すと、漁師はボートに逃げ込んだので、傷ついたイフチアンドルとリーディングは、すぐさま入り江に向かう。そして、イルカを水中洞窟に誘導した。
 この洞窟は、入り口こそ水中にあるものの、空気が岩の裂け目から入り込み、水は洞窟の半分しか満たしていない。
 この安全な場所ならイルカも息を継ぐことができる。そしてイフチアンドルはリーディングの傷を確認した。致命傷ではなく、弾は皮膚の下の脂肪層で止まっていた。彼は弾を指でつまみ出し、その間リーディングはじっと我慢していた。
 最後にイフチアンドルは、優しく友だちの背中を叩いてやった。
「すぐに治るよ」
 それからやっと、自分のことに取りかかった。水中トンネルを急いで抜け、庭に上がり、白い家に入る。
 クリストが、傷ついたイフチアンドルを見て驚いた。
「どうなさったんで」
「イルカを助けたとき、漁師にやられたんだ」
 けれどクリストは、その言葉を信じなかった。
「あっしに内緒で、また町に行ったんじゃありやせんか?」
 傷に包帯をあてながら、疑わしそうに尋ねるその問いに、イフチアンドルは、何も答えなかった。
「鱗を下げてください」
 クリストに言われてイフチアンドルが肩を出すと、クリストはそこにある赤い痕を見つけて驚いた。
「こいつはオールでぶたれたんですかい?」
 そう言って、肩をさすった。けれどそれは、打ち身ではなく痣のようだった。
「ちがうよ」
 イフチアンドルは、それしか答えず、治療が終わると自分の部屋に閉じこもってしまった。
 一方、残されたクリストも、頬杖をついて考え込んでいた。長い間座り込み、そして部屋を出て町へと急ぎ、バルタザールの店に飛び込んだ時には、息を切らしていた。
「父さんはいるかい」
「奥にいるわ」
 カウンターの隣に座って店番をしていたグッチエーレが、隣の部屋を示すと、クリストは工房に入り、扉を後ろ手で閉める。フラスコの向こうで、バルタザールが不機嫌そうに真珠を洗っている。
「いったいどいつもこいつも何を考えてやがるんだ!」と、彼は愚痴り始めた。「ズリタは毎日、なんで海の悪魔を連れてこないんだと言う。グッチエーレは毎日出かけちまう。そしてあの娘は、ズリタの言葉に耳を貸さず『だめ』ばっかり。ズリタは、もう『だめ』にゃうんざりしたから無理やり連れて行く、最初は泣いてもすぐに諦めるだろうと言い出しやがった。いったい俺に、どうしろっていうんだ」
 クリストは弟の不平が終わるのを待って、こう言った。
「まあ聞いてくれ。わしが海の悪魔を連れて来れないのは、グッチエーレと同じで、あいつはわし抜きで毎日出かけちまうからなんだ。町にも行きたがらないし、わしの話も聞かなくなっちまた。サルバトール博士が戻ったら、イフチアンドルをちゃんと世話しなかったといって、わしに腹を立てるだろうさ。そうなったら、ますますあいつを手に入れるのが、難しくなっちまう。
 いや、バルタザール、待ってくれ。わしの話を最後まで聞いてくれ。なんで急ぐ必要がある。イフチアンドルのことは、焦るもんじゃない」
 そこでクリストは、どう話したらいいのか迷っているかのように、ため息をつき、「お前も見てみりゃ……」と、再び話し始めた。しかし調度その時、店に誰かやってきた物音がして、騒々しいズリタの声が聞こえてきた。
「まただ!」
 バルタザールがぶつくさ言いながら、真珠を薬の中に放り込んだ時、ズリタが工房の扉を開けた。
「詐欺師の兄弟どもが、雁首そろえてやがるな。いつまで俺を騙すつもりだ」
 ズリタは、バルタザールとクリストを、じろりと睨む。
 クリストは立ち上がり、丁重に微笑んで見せた。
「わしはできるかぎりのことをしてますとも。焦っちゃいけやせん。海の悪魔は、そこらの小魚じゃないんでさ。あんたが池からすぐにすくい出せるような小物じゃない。一回はここに連れて来た。けれどそんときは、あんたがいなかった。おまけに海の悪魔は町が嫌になって、もうここに来る気を無くしちまったんでね」
「勝手させておけ。だが俺はもう待ちくたびれた。今週中に面倒事は二つとも片づける。サリバトール博士はいつ帰ってくるんだ」
「じきだと思いますよ」
「なら急がんといかん。俺はお前らよりアテになる連中を集めて行くから待っていろ。クリスト、お前は中から扉を開けるんだ。あとは俺たちが全部やる。準備ができたらバルタザールに言う」
 そしてバルタザールに向き直る。
「お前には明日話す。そいつが最後だと思え」
 兄弟は、黙って頷いた。けれどズリタが背中を向けたとたん、クリストの顔から微笑みは消え、バルタザールは口の中で悪態をついた。
 クリストは、何か考えているようだった。
 店で、ズリタがグッチエーレに何か言っている。
「だめ!」
 グッチエーレの返事が、兄弟のところまで聞こえた。
 バルタザールは、頭を振って落胆する。
「クリスト!」と、ズリタが叫んだ。「用がある。ついてこい」
 そしてズリタとクリストは、店を出ていった。

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