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 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2005.1.15 最終更新日

18 タコと戦う

 海に飛び込んだイフチアンドルは、地上の嫌な事を忘れようとした。
 息がつまりそうな地上の暑さの後で味わう水中の涼しさは、とてもすがすがしく、心を落ち着かせてくれる。大きくエラで深呼吸すると、ひどい痛みも治まった。
 地上での出来事を頭から追い払うために、無闇に体を動かして熱中できる気晴らしをしたい。たとえば暗い夜に高い崖から海に飛び込んで海の底に手が付くほど深く潜るのは好きだ。だけど今は真昼間で、海面に漁船の暗い影が揺れている。
「そうだ。洞窟の引越しをしよう」
 入り江の垂直な崖の傾斜には、入り口が大きなアーチになっていて、すばらしい水中平原が眺められる小洞窟がある。ずっと前からそこに目は付けていたのだけれど、沢山のタコの家族に占領されていた。
 イフチアンドルは水中眼鏡をかけ、反り返ったナイフを手に、堂々とその洞窟まで泳いでいった。けれど、そのまま中に突入するのは無謀にすぎる。沈没したボートの近くに柄の長い銛が落ちていたことを思い出し、それを持って戻り洞窟の入り口に陣取ると、中に向けて突き始めた。
 侵入して来たわけのわからない物に引っ掻き回され怒り出したタコが、アーチの向こうから、長い触手を伸ばしてくる。タコは用心しながら銛に近づいたが、イフチアンドルは銛を掴まれる前に引き上げては、タコを攻撃した。
 このゲームは、まるでメドゥーサの蛇の髪のように、アーチの下に触手が十ばかりものたうち始めるまで、数分続いた。ついに巨大なタコは我慢できなくなり、生意気な侵入者を懲らしめようと這い出してきた。そして威嚇するかのように体色を変化させながら、敵の前に泳ぎ出た。
 イフチアンドルは脇へ回り泳ぎ、銛を手放して身構えた。八本の長い足の敵と戦うとき、二本の腕で対抗するのは難しいからだ。タコの足を一本切り落とそうとしている間に、他の七本が絡んできて、それを許しはしないだろう。
 そこで彼はタコに近づいて、ナイフで急所を突くことにした。怪物の接近を許した後で、イフチアンドルは突如その足の付け根から頭に向けてナイフを突き出した。タコは不意の攻撃を避けられず、触手をからめてきたものの、それから四秒もたたぬ間に、イフチアンドルは素早く正確な動きでタコの運動神経を断ち切ると、突如巨大な触手はぐったりと力尽きた。
「これで一匹片付いた!」
 もう一度洞窟に向かうと、今度はすぐに二匹のタコが泳ぎ出してきた。一匹は回り込んでイフチアンドルの背後から襲い、もう一匹は前から真っ直ぐかかってきた。こいつはちょっと危険だけれど、彼はひるまなかった。前にいるタコに攻撃している間に、後ろのタコが首に触手を絡ませてくる。首に絡んだタコの足を素早く切り落とす。落ちた足が丸まり、彼は別の足に取り掛かる。ついに後ろのタコが足を失い、ゆっくりと海底に落ちていく。イフチアンドルは正面にいるタコにとりかり、これもやっつけた。
「これで三匹」
 けれど一時休戦だ。洞窟の周辺はタコの血で水が濁り、見通しが利かなくなったからだ。その陰気な茶色の霧で、彼の視界は閉ざされるけれど、敵は手探りで簡単に彼を見つけてしまう。このまま戦っては不利だ。彼は泳いで血の雲から水の澄んだ所まで退避する。そして、そこまで追いかけてきたタコをもう一匹倒した。
 こうしてとぎれとぎれに戦いは数時間続き、ついに最後のタコを退治した。
 イフチアンドルは、周囲の水が澄むのを待って、動かなくなったタコを解体した。切り落とされた触手は、彼の周りでまだ蠢いている。
 それからイフチアンドルは、洞窟に入った。中にはまだ、頭が握りこぶしぐらいで触手が指ぐらいの、小さなタコが何匹かいる。彼はそれも殺すつもりだったけれど、不意に可哀想になって、飼ってみようと思い直した。タコに洞窟の見張りをさせるというのも、いいかもしれない。
 タコのことが片付くと、彼は新しい水中の家に家具を持ち込んだ。洞窟の真ん中に、四本の鉄の足がついた大理石のテーブルを置き、その上に中国の花瓶を二つ並べる。花瓶には土を入れて、少しばかり海の花も植えることにした。土は少しばかり煙のように立ち上り、少しばかりあたりが濁ったが、すぐに水はきれいになった。
 洞窟の壁からは、自然が作り出した岩のベンチが突き出していた。洞窟の新しい主は喜んで体を横たえた。ベンチは岩だが、水中ではとても柔らかい感じがする、彼はそこから、自分の仕事の成果を眺めて満足した。
 好奇心の強い魚たちが、テーブルと二つの中国の花瓶のある奇妙な水中の部屋を、覗きにやって来て、テーブルの脚の間や、花瓶の花の周りを、ちょこまかと泳ぎ回る。まるで花に誘われた蝶のようだ。そしてさらに、イフチアンドルがそっと追い払うまで、彼の頭の周りを泳ぎ回った。
 キャットフィッシュは、入り口までやってきたけれど、驚き慄き尾を振りながら泳いで行ってしまった。
 白い砂の上をそっと歩いてやってきた大きなカニは、部屋の主に敬意を示すかのようにハサミで挨拶し、そしてテーブルの下に這い込んだ。
 イフチアンドルは、楽しんでいた。
(もっと部屋を飾ろう。入り口あたりに綺麗な海藻を植え、床に真珠を敷き詰めて、壁には貝殻を飾ってみよう。もしグッチエーレがこの部屋を見たら……。でも、彼女は僕を騙したんだ。いいや、たぶん、彼女は僕を騙したりしなかった。彼女は本当に、オルセンのことを僕に説明する暇がなかっただけなんだ。)
 イフチアンドルは、眉をひそめた。やることがなくなってしまったとたんに、再び孤独が彼を責め始める。
(なぜ誰も、僕みたいに水の中では生きていけないんだろう。父さん、早く帰ってこないかな! そしたらお父さんに聞くことができるのに……。)
 彼は誰かに、彼の新しい家を見せびらかしたかった。
「リーディング」
 イフチアンドルは、イルカを呼ぼうと泳ぎ出た。海面に浮かんだイフチアンドルは、手にした巻貝を吹き鳴らす。まもなくイルカの友だちの息遣いが、近くの入り江の方から近づいて来た。
 やってきたリーディングを、イフチアンドルは優しく抱きしめる。
「リーディング、一緒においで。僕の新しい部屋を見せてあげるよ。君はテーブルや中国の花瓶なんて、見たことないだろ?」
 イフチアンドルは友だちを従え海に潜った。
 けれどすぐに、イルカは非常に厄介なお客であることがわかった。
 大きくて、不器用で、イルカは洞窟のテーブルの花瓶を巻き上げ、さらに鼻をテーブルの脚にひっかけて引っくり返したので、花瓶が転げ落ちてしまった。もし海の中の出来事でなければ、花瓶は地面に落ちて粉々になってしまっただろうが、驚いたカニが、とんでもないスピードで壁沿いに逃げていった他は、問題はない。
「君はなんて不器用なんだ!」
 テーブルを引き寄せ花瓶を乗せて元に戻すと、イフチアンドルはリーディングを抱きしめる。
「僕とここに住もうよ」
 けれど間もなく、リーディングは頭をふって不安を表した。イルカは息をするために、海面に出なければならない。空気が必要なのだ。
 イルカはヒレをうち振って洞窟から泳ぎ出し浮上していき、イフチアンドルはただ一人取り残された。
 リーディングでさえ、水中で一緒に暮らすことはできない。いるのは馬鹿で怖がりの魚たちだけだ。
 彼は唐突に、石のベッドに身を投げ出した。
 すでに太陽は沈み、洞窟の中もすでに暗い。日中の興奮と仕事によって疲れていたイフチアンドルは、水に優しく揺り動かされ、そのまま眠りに落ちていった。

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