(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2005.1.15 最終更新日

20 旅路

 イフチアンドルは、海岸に置いてあったスーツと靴をナイフのベルトで縛って背負い、水中眼鏡と手袋を身につけて身支度を整えると、急いで出発した。
 ラプラタ湾のパラナ川河口付近には、外洋汽船や、スクーナーや、ランチ船がたくさん係留されていて、小型の蒸気タグボートが、その間をちょこまかと動き回っている。水中から見ると、水上からの指示でてんでに動いているタグボートは、まるでゲンゴロウのようだ。
 まるで細い幹の林のように、錨に結ばれた鎖やロープが、海底から立ち上がっている。
 河口の底は、鉄屑や、こぼれ落ちたか捨てられたかした大量の鉱滓で厚く覆われ、ホースの断片、帆、ドラム缶、レンガ、割れたビン、食べ物の空き缶が、海岸近くには犬や猫の死骸が転がり、海面は油膜で覆われている。
 日はまだ高かったけれど、あたりは緑がかった灰色の薄闇に覆われていた。流れ込むパラナ川が、砂と汚泥をかきまぜているのだ。
 イフチアンドルは、この河口の迷路で迷いそうになったが、この川の緩やかな流れが、コンパスの役目を果たしてくれた。
(まったく、びっくりするほどだらしないなぁ。)
 彼は目の前のゴミ捨て場のような海底に嫌気がさし、船の底と水底の間を泳いでいった。汚れた水は、まるで密室に閉じ込められた時のように息苦しい。
 水底で骨になった動物と、そしていくつかの人間の死体を見つけた。その一つは頭蓋骨が割られていて、首には石のついたロープが巻きつけられていた。誰かが犯罪の証拠を隠滅したのだ。
 イフチアンドルは、このぞっとする場所から逃れようと急いだ。けれど、河口の奥に行くほど逆流が強くなり、泳ぐのが難しくなっていく。
 海にも同じように流れがあったけれど、彼は、帆船の船員がいろいろな向きの風を利用するように、その流れを利用する方法を知っていた。けれどここには、逆流が一つあるきりだ。
 イフチアンドルは、イライラしながら、ゆっくりと進んでいくと、突然上から何かが飛び込んできて、彼をかすめて落ちていった。船が錨を下ろしたのだ。
 別の大きな汽船が通り過ぎていく。
(ここを泳いで行くのは危険だ。)
 彼はその船の下に潜り、船の底が通り過ぎようとしたとき、フジツボに覆われてデコボコした船の竜骨を捕まえた。あまり快適とは言えないけれど、暗礁の危険もなさそうで、汽船を使うとずっと早く移動できることがわかった。
 河口の三角州が終わり、汽船はパラナ川下流のラプラタ川を登りはじめる。
 川の水は泥だらけで、イフチアンドルは淡水の中で息がつまり、腕の感覚もなくなってきたけれど、彼は汽船から手を離そうとは思わなかった。
(リーディングがいてくれたら!)
 けれど人間は、川に入り込んだイルカを殺すことがある。それにイルカは、水に潜ったままではいられない。リーディングは、流れの強い川の水面に出る事を恐れていた。
 腕はさらに痺れ、それにイフチアンドルは朝から何も食べておらず、疲労は限界に達していた。
 もう休まないといけない。竜骨から手を離し川底へと降り、夕闇の中で泥だらけの川底を見回す。けれど、平たいヒラメも牡蠣の殻も、見つかりはしない。
 近くで淡水魚がさっと動いた。けれど彼は川魚の習性を知らなかったし、海魚よりずっと賢いらしく、まるで捕まえることができない。なんとか夜が訪れ魚が眠りに落ちた後で、大きなカワカマスを捕まえて、空腹のあまり硬くて泥臭い肉どころか、骨の欠片さえ残さず飲み込んだ。
 眠らないといけない。この川は静かで、恐ろしい鮫やタコについて心配することなく、眠ることができそうだ。けれど眠っている間に下流に流されないようにする必要がある。イフチアンドルは川底で石がいくつかある場所を見つけ、その窪みに入り込み、石の一つを掴んで身を落ち着かせる。
 しかし充分眠らないうちに、汽船が近づいてくる気配に気づいて目覚め、信号灯の明かりを見つけた。
 汽船が下流からやってくる。
 彼は急いで浮上し、汽船に掴まる準備をした。しかしその船は、底が完全に滑らかなモーターボートだったので、底にしがみつくことを諦めて、スクリューに巻き込まれる前に深く潜った。それから下流に向かう数隻の汽船を見送った後で、上流に向かう汽船に掴まった。
 こうしてイフチアンドルは、パラナに到着し、旅の最初の部分が終わった。しかしそれは、さらに困難な旅の残りの始まりにすぎなかった。
 朝の早いうちにイフチアンドルは、泳いで騒々しい街の港を離れ、岸を慎重に観察して、人がいない場所を選んで岸に上がり、はずした水中眼鏡と手袋を岸辺の砂に埋め、スーツを日に当てて乾かすと、それを着た。
 皺だらけのスーツを着たイフチアンドルは、まるで浮浪者のように見えたけれど、彼は自分がどう見えるかなど意識したこともなく、オルセンに聞いた通り岸の右側に向かい、歩いていた漁師に「ドロレス」や「ペドロ・ズリタ」という名前の人たちがいる場所はどこかと質問した。しかし漁師は、疑いの眼差しで彼を見て、頭を横に振っただけだった。
 こうして、猛暑の中で数時間が過ぎ去ったが、何もわからず、イフチアンドルは疲れきってしまった。地上で行ったことのない場所へ行くための方法を、彼はまるで知らなかったし、その上暑さが彼の頭を鈍らせたので、元気を取り戻すために、幾度か服を脱いで川に浸らなければならなかった。
 ついに午後も四時を回るころ、年老いたお喋りな農夫に出会うことができた。農夫はイフチアンドルの話を聞くとうなずいて、こう話してくれた。
「まずこの道を真っ直ぐ行く。すると大きな池があり橋を渡り小さな丘を登ると、そこが口髭のドロレスさ」
「なぜ口髭なんですか? ドロレスは人の名前で、ドロレスの牧場ではないんですか?」
「そう牧場だ。そして口髭ってのは、牧場のドロレスばあさんのことさ。ペドロ・ズリタの母親のな。本当にばあさんには、口髭があるんだ。雇ってもらおうと思ってるんなら、やめた方がいいぞ。生きたまま喰われちまう。ありゃ本物の魔女だ。ズリタが若い妻を連れてきたという話だが、あの義理の母親と一緒に暮らしたら、若さを喰われちまうだろうな」
(グッチエーレのことだ)
「まだ遠いんですか?」
 農夫は太陽を見た。
「夕方までには着けるさ」
 イフチアンドルは農夫に礼を言って、小麦とトウモロコシ畑の中へ向かう道を歩き始めた。が、あまり急いだために、すぐに疲れてしまった。
 道は無限に続く白いテープのようで、小麦畑はやがて草のよく茂った牧草地になり、羊の群れがその牧草を食べている。
 わき腹が切り裂かれるような痛みを感じ、イフチアンドルは身を屈めた。
 ひどく喉が渇いていたけれど、あたりに水はない。
(せめて池に急ごう!)
 すでに彼の頬と目はくぼみ、息が荒くなった。何か食べたかった。けれど、いったいここで何が食べられるというのだろう。はるか向こうの牧草地で、牧夫と犬に守られた雄牛の群れが、草を食べている。石垣の向こうには、熟したモモとオレンジが実っている。けれど、ここでは海と違い、すべてが誰かの所有物で、細かくわけられ、塀で囲まれ、見張られていた。誰の物でもないのは、自由に飛び回り頭上で囀る鳥だけだ。
 鳥を捕まえられないだろうか。いや、捕まえることができるなら、もう誰かの物になっているはずだ。
 この豊かな果樹園と牛の群れの間で、簡単に飢えて渇いて死ぬことができそうだ。
 その時、白いピーク帽と、金ボタンのついた白い上着を着た、太った男が向こうからやってきた。ベルトには銃をぶらさげ、手を後ろに組んでいる。
「ドロレス農場は、まだ遠いですか?」
 太った男はイフチアンドルを疑いの目で見た。
「なにしに行くんだね? どこから来たんだね?」
「ブエノスアイレスから……」
 白い上着の男は、ますます疑わしそうに睨みつけたので、「そこに、会いたい人がいるんです」と、イフチアンドルはつけ加えた。
「手を前に出しなさい」
 イフチアンドルは、太った男の言葉に驚いたが、疑いはせず手を出した。すると男は、ポケットから手錠を取り出して、あっというまにイフチアンドルの手に掛けてしまった。
「捕まえたぞ」と、ピカピカボタンの男は言い、イフチアンドルをぐいと押すと、大声で言った。
「行け! ドロレス牧場に連れていってやる」
「なぜ僕の手を拘束するんです?」
 イフチアンドルは、当惑して尋ね、手を上げて手錠をまじまじと見た。
「話すことなどない! さっさと行け!」と、太った男は怒鳴った。
 イフチアンドルは、しばらく首をかしげてから、まあ、後戻りするわけではなさそうなので、足を引きずって道を歩き出した。何が起きているのかも、よくわかっていなかった。
 実は、昨夜隣の農場で強盗殺人事件があり、警察がその犯人を捜している所に、イフチアンドルは出くわしてしまったのだ。しかも見た目の怪しいイフチアンドルの曖昧な返事が、警官の疑いを決定的なものにしてしまった。
 警官は、逮捕した彼を刑務所のあるパラナに送るために、近くの村へ連れて行くつもりだった。
 けれどイフチアンドルにわかったのは、行動の自由が奪われ、イライラするほど旅が遅れ始めた、ということだけだ。彼は、最初のチャンスが訪れたら、どんな代償を支払うことになろうとも、自由を取り戻そうと心に決めた。
 太った警官は、うまくいったことに満足した様子で長い葉巻を吸い始めた。煙は後ろになびいて、すぐ後ろを歩いているイフチアンドルを直撃し、彼はひどくむせ始めた。
「僕を煙から開放してください。息が苦しいんです。わかってください」と、彼は煙に包まれて頼み込むと、警官が振り向いた。
「なんだと? 俺にタバコを吸うなと言うのか? はっはっは」彼は、顔を皺だらけにして彼を嘲笑し、イフチアンドルの顔に煙を吹きかけ、「そりゃいいな!」と、どなっただけだった。
 ついに、池にかかった狭い橋が見えてきた。イフチアンドルは、思わず足を速めた。
「お前のドロレス牧場に急ぐこたないぞ!」と、太った警官は叫ぶ。
 二人は橋を渡っていたが、橋の中ほどに達すると、イフチアンドルは突然手すりを乗り越え、そのまま池に飛び込んだ。
 警官は、手錠を掛けられている者が、そんなことをするとは思っていなかったが、イフチアンドルも、警官が次の瞬間に、彼を追って池に飛び込んでくるとは、思ってもいなかった。
 警官は、犯人が溺れ死ぬことを恐れたのだ。犯人は生け捕りにして刑務所に送りたかったし、手錠をしたままの犯人が溺れ死んだら、責任を問われて面倒を背負い込むことになる。
 即座に行動した警官は、イフチアンドルの髪を掴むことに成功し、離すものかと頑張った。
 そしてイフチアンドルも、髪が引きちぎられてもかまうものかとばかりに、警官を引きずったまま底へと潜った。
 間もなくイフチアンドルは、髪から手が離されたことを感じ、そのまま泳いで警官から数メートルばかり離れると、追っ手の様子を見ようと水面に出た。
 警官は水面でもがいでいたが、イフチアンドルを見つけて叫んだ。
「悪党め、溺れちまうぞ! こっちへ泳いでこい!」
(なるほど、それはいい考えだ)
 そしてイフチアンドルは、いきなり叫んだ。
「助けて!」
 そして再び底へと潜ると、水に潜って自分を探す警官から身を隠した。
 警官があきらめた様子で岸に向かうと、「今にいなくなるだろう」と、イフチアンドルは考えた。
 けれど警官は、あきらめなかった。彼は、死体が池に浮かび、捜査官が到着するまで、ここで待とうと決めたのだ。
 当人が池の底に隠れ続けても、問題は解決しないらしい。
 警官は、袋を積んだラバを連れた小作人が橋を渡ってやって来ると、彼の袋を取り上げて、一番近くの警察署に応援を頼む手紙を持って行くよう命令した。
 事態は、イフチアンドルにとって、どんどんよくない方向へ向かっている。
 おまけに池には、蛭までいた。蛭はイフチアンドルに群がり体に吸い付いてくるのに、警官の注意を引かないためには、水を乱さないよう蛭を取るには、細心の注意が必要だった。
 三十分ほどすると、小作人が戻って来て、道路の向こうの方に手を振り回すと、袋をラバの背に乗せて、急いで行ってしまった。それから五分もすると、池の岸に三人の警官が到着した。そのうち二人は、頭の上に軽いボートを担ぎ、三人目がオールと鍵竿を持っている。
 警官たちは池にボートを下ろすと、鍵竿で溺死しているはずの犯人を、探し始めた。
 イフチアンドルには、この程度の探査は平気だった。ボートが近づいてきたら、少しばかり移動するだけで、まるで遊んでいるようなものだ。
 警官たちは鍵竿で、橋の周辺の池の底を引っ掻き回したが、死体が見つかるはずもない。イフチアンドルに手錠をかけた警官は、両手を広げて困惑を表し、イフチアンドルはそれを面白がっていた。
 ただまもなく、必然的に状況が悪化した。
 警官たちが鍵竿で池の底を引っ掻き回したために、池がかき混ぜられて、泥が底から舞い上がってしまったのだ。もはやイフチアンドルには、伸ばした自分の手すら見えなくなってしまった。それはそれで危険ではあったけれど……、真の危険は、舞い上がった泥のために水中の酸素が減り、エラ呼吸ができなくなってきたことだ。
 イフチアンドルは窒息し、エラ全体が焼かれるような痛みを感じ、こらえきれないうめき声が、いくつもの泡となって彼の口から飛び出していく。もうこれ以上我慢することなど、できはしない。
 どうするべきか? 池には脱出できるような水路はなさそうだ。しかし池から上がれば、警官たちはイフチアンドルを殴りつけて、捕まえるだろう。
 しかし、たとえそうだとしても、もう選択の余地はない。
 イフチアンドルは、どうしようもなくなって、ふらふらと浅瀬に歩いて行き、水面に頭を出した。
「!」
 それはイフチアンドルの声ではなかった。
 警官の、声にならない叫びだった。そして警官は、おそらく岸に向かって泳ごうとして、ボートから池に飛び込んだ。ボートのもう一人の警官は、ボートの底につっぷして「イエス様! マリア様!」と、繰り返し叫んでいる。
 岸に残っていた二人の警官は、真っ青になって、恐怖から逃れるために祈りを呟きながら、互いの後ろに隠れようとした。
 イフチアンドルには、わけがわからなかった。こうなるとは思ってもいなかったし、どうして怖がっているのかも、わからなかった。
 そしてやっと、スペイン人は迷信的で信心深いことを思い出した。おそらく警官たちは、あの世から幽鬼が現れたと思ったのに違いない。
 イフチアンドルは、もっと彼らを驚かせてやろうと、歯を剥き出し、目をぎょろつかせ、せせら笑いを浮かべ、大声で泣き喚きながら、岸に向かった。そして慎重にゆっくりと大またで歩いて岸を離れ道に向かい、その場から立ち去った。
 警官たちは、誰一人として身動きせず、彼を逮捕しようとはしなかった。迷信からくる幽鬼に対する恐れが、職務の遂行を妨げたのだ。

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