(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2005.1.15 最終更新日

21 こいつが『海の悪魔』だ!

 ペドロ・ズリタの母親ドロレスは、大きな鉤鼻の太ったばあさんだった。突き出た顎には濃い髭が醜く生え、この女には珍しい特徴ゆえに、あたりの人は彼女を口髭のドロレスと呼んでいた。
 息子が若い妻を連れて来ると、ばあさんはまず遠慮なくグッチエーレをジロジロと見た。ドロラスは、誰に対しても、まずは欠点を探すのだ。ところがグッチエーレの美しさには欠けるところなかったので、ばあさんはショックを受けた。しかし口髭のドロレスは、台所で考えに考えて、その悩みを解決した。その美しさこそが、グッチエーレの欠点だ。
 息子と二人っきりになると、ばあさんは絶対にダメだとばかりに首を横に振りながら、息子に言った。
「確かに別嬪だよ! けど、あんまりにも別嬪すぎる!」そしてため息をついた。「別嬪すぎるのは揉め事の種ってことが、わかってないのかい……。まったく、もっとましなスペイン娘と結婚すりゃあいいじゃないか。それに、高慢ちきな柔らかい手。ヤワヤワで、家事なんて出来やしないよ」
「だから別れろってのか」
 ペドロはそう言って、金勘定に没頭した。
 あくびをしてドロレスは、息子の邪魔をしないよう夜の庭に涼みに行った。彼女は月明かりの下で夢想するのが好きだった。
 ミモザのよい香りが庭を満たし、白い百合が月の光に照り映えている。
 月桂樹が、葉をざわつかせている。
 ドロレスは銀梅花の中のベンチに座り、そして彼女の夢に浸った。
(隣の土地を買って、新しい小屋を建て、いい毛の取れる羊を増やすんだ。)
「おっと、あんた何すんだい!」彼女は腹を立てて大声で叫び、自分の頬を叩いた。「蚊どもときたら、人を静かに座らせてもくれないんだから」
 雲が空を覆い、庭が暗くなってきた。地平線に、青白いパラナの町の明かりが、くっきりと浮かび上がっている。
 突如彼女は、低い石垣の上に現れた人の頭を見た。その何者かは、手錠の掛けられた手を挙げ、石垣を飛び越えて中に入り込んで来る。
(脱獄犯が庭に入り込んだ!)
 彼女は叫びたかったが、声が出なかった。立ち上がって逃げ出したかったが、刈り取られたかのように、足に力が入らなかった。
 彼女はベンチに座ったまま、暗がりからじっと知らない男を目で追った。
 一方手錠の男は、低い繁み伝いに家に近づき窓を覗き込んでいる。
(聞き間違いじゃなかろうか?)
 突然そいつが、小声で呼んで己の罪を証明したのだ。
「グッチエーレ……!」
(ほうら、やっぱり別嬪ってやつは! あの娘が手引きしたんだ! 善良そうな顔をして、あたしと息子を殺して金を奪って駆け落ちするつもりなんだ。)
 湧き上がったグッチエーレへの悪意が力となり、ばあさんは飛び跳ねるように立ち上がり、ほくそ笑むとよたよたと家の中へ転がり込んだ。
「急ぐんだ!」と、ドロレスは息子を小声で呼んだ。「庭に囚人がいる。グッチエーレを呼んでるよ」
 ズリタは、まるで家が火事になったかのように急いで飛び出すと、庭の小道に放り出されていたシャベルを掴み、そして走って家をぐるりと周った。
 確かに手錠をかけた皺だらけのスーツの見知らぬ男が、壁際に立って窓を覗き込んでいる。
「くたばりやがれ!」
 ズリタは小声でつぶやくと、男の頭のてっぺんに、シャベルを振り下ろした。
 男は、音もなく地面に崩れ落ちる。
「よし、もういいぞ……」と、ズリタは呟いた。
「もう大丈夫だね」
 後からやってきたドロレスが、息子が危険なサソリを潰したに過ぎないかのような口ぶりだ。
 ズリタは母親に助けを求める。
「こいつをどうしよう?」
「池に」と、ばあさんは答えた。「池は深いよ」
「浮いちまう」
「石を結びつけりゃいい。ちょっと待ちな」
 ばあさんは家に走りこみ、大急ぎで死体を入れる袋を捜し始めた。けれど袋はその日の朝、製粉所に小麦を運んだ時に、全部使ってしまっていたので、枕カバーと長い紐を持ってきた。
「袋はなかったけど、この枕カバーに石を詰め込んで、紐で手錠に縛りゃいい……」
 ズリタは頷いて死体を担ぎ上げると、庭の隅の小さな池に引っ張っていった。
 ばあさんは、枕カバーと紐を持ち、足を引きずりながら息子の後ろをついて歩く。
「服を汚すんじゃないよ」
「後で洗ってくれ」
 ズリタは、死体を逆さまに担いでいるので、血が地面の上に滴っている。
 池に着くと、ズリタは枕カバーの中に手早く石を詰め、男の手錠に紐で結びつけると、池にその体を投げ込んだ。
「服は今すぐ着替えなきゃならん」そしてペドロは空を見た。「雨が降る。地面の血は、朝までに洗い流されちまうさ」
「池が血でピンク色にならないかね」
「大丈夫だ。池の水は流れているからな……」ズリタは家の窓に向かって、鼻息荒く拳を振り上げた。「ちくしょうめ!」
「お前が連れてきた別嬪のせいだからね!」
 息子の後ろを歩きながら、ばあさんは哀れな声を出した。

 その夜、グッチエーレは屋根裏の部屋で、寝つけないでいた。
 蚊がうっとおしく、嫌なことばかり心に浮かんだ。イフチアンドルの死を、忘れることができなかった。夫を愛することができなかった。義理の母が嫌でたまらなかった。けれどこれからずっと、髭ばあさんと一緒に暮らさなければならない……。
 その夜グッチエーレは、イフチアンドルの声を聞いたような気がした。声は彼女の名前を呼び、それからかすかな物音と話し声が庭から聞こえたように思えた。それが気になり続け、ついにその夜はもう眠れないと、諦めた。
 彼女が庭に出た時、まだ夜は明けておらず、庭は朝の薄闇の中で霧に覆われていた。雲は遠くへと去り、草木には沢山の露がきらめいていた。
 明るい色の薄いガウンを着て、グッチエーレは素足のまま草の上を歩いた。
 突然、彼女は立ち止まり、注意深く地面を見始めた。窓に向かう小道の砂が血で汚れている。そして引きずった跡の先に血まみれのシャベルがある。
 夜、ここで何らかの犯罪が行われたのに違いない。でなければ、こんなところに血痕があるだろうか?
 グッチエーレは、後先考えず痕跡を辿り、池にたどり着いた。
(罪の証拠を、最後に池に隠したのかしら?)
 彼女は、怯えながら緑がかった水を見つめた。
 すると、その池の水の下に、イフチアンドルの顔がある。
 こめかみの裂けた彼の顔には、苦しみと同時に幸せの表情が浮かんでいる。
 水中に沈んだイフチアンドルの顔を見て、グッチエーレはおののいた。
(これは私の心が見せているの?)
 グッチエーレは逃げ出したかった。けれど、目をそらすことすらできなかった。
 けれどイフチアンドルは、水中をゆっくりと上がり、静かに水面を揺らして水面に現れた。彼はグッチエーレに腕を伸ばして嵌められた手錠を見せてぎこちなく微笑み、話しかけてきた。
「あなただ、グッチエーレ! 僕の大切な人! やっとグッチエーレに……!」
 しかし最後まで言うことはできなかった。グッチエーレが頭を抱え、恐怖の叫びを上げたのだ。
「消えて! 迷ったの! 私知ってるわ、あなた死んだのよ。なぜあなたは私の前に現れるの?」
「ちがうよ、ちがうよ、グッチエーレ。僕は死んでない」と、幽霊は消えもせず、急いで言った。「僕をよく見て。僕はあなたに……、隠してたんだ。僕は、僕がこうなった理由を知らない……。行かないで僕の話しを聞いて。生きている。ここにいる。僕の手に触ってみて……」
 そして彼は手を差し出した。
 グッチエーレは、それをじっと見る。
「怖がらないで、本当に生きているから……。僕は水の中でも死なない。みんなはそうじゃないけど、僕は水の中でも生きていられるんだ。あの時海に飛び込んだ後も、溺れたりしなかった。あのとき僕は空気を呼吸できなくなって急いでたんだ」
 イフチアンドルは慌てて、支離滅裂になっていった。
「僕は、グッチエーレ、あなたを探したんだ。昨夜あなたの夫が僕の頭を殴りつけて、その時僕は窓に近づいていて、そして僕を池の中に投げ込んだんた。僕は水の中で気がついて、そこで僕は石の入った袋を外すことができたけど、でもこれ(イフチアンドルは手錠を見せた)は、外すことができなかったんだ……」
 グッチエーレは、目の前にいる幽霊が、生きた人であると信じ始めた。
「けれどなぜあなたは手錠をしているの」
「それについては、あとで話すよ。グッチエーレ、僕と逃げよう。僕の父さんが、かくまってくれるよ。誰も僕たちを見つけられない……。そして僕と一緒に暮らそう……。グッチエーレ、でも、まず僕の手に触れて。オルセンは僕のことを『海の悪魔』って呼ぶけど、どうしてみんなが僕のことを恐れるのか、僕にはわからないよ」
 イフチアンドルは、池の泥に全身を覆われていた。そして疲れきっていて、そのまま草の上に座り込んだ。
 グッチエーレは、彼の上にかがみこむと、ついに彼の手を取った。
「私の可愛そうな子」
 突然からかう声が上がった。
「ずいぶんと楽しそうじゃないか!」
 振り向くと、すでにすぐ近くまでやってきたズリタが、こちらを見ている。
 ズリタも、グッチエーレと同じように、あれから眠ることができずにいた。そして彼女の叫び声を聞いて庭に出て、そして全ての話しを聞いたのだ。
 彼は、目の前に、長い間捕まえようとして出来なかった『海の悪魔』がいると知って、すぐにイフチアンドルをメドゥーサ号に連れていこうと考えた。しかし考え直して、別の手を取ることにした。
「イフチアンドル君。お前のために言っておいてやろう。グッチエーレを連れてサルバトール博士の所に逃げ込んだとしても、うまくいかんぞ。なぜならグッチエーレは、俺の妻だからだ。君が君の父親の所に戻ったとしても、警察は君を逮捕する」
「けど僕は、何も悪いことはしていない!」
「警察が悪いことをしていない者に、手錠をかけたりするもんか。そしてもしお前が俺を怒らせたら、俺は当然の義務として警察に通報するからな」
「本当にそうするつもりなの」と、グッチエーレは憤慨しながら夫に尋ねた。
「引き渡すのが、当然だろう」と、ズリタか肩をすくめる。
「そいつが一番さ」と、やってきたドロレスが、口を挟んだ。「囚人を自由にしてやるなんて! 誰のためになるんだい? 窓を覗き込む変な男に、若い妻を盗ませるためにかい?」
 グッチエーレは夫に近づき、彼の手を取ると、心を込めて頼み込んだ。
「私のために、彼を自由にしてあげて。私はあなたに、何も疚しいことはしてないわ……」
 ドロレスは驚き、そして息子が妻の言うなりにならないように、手を振り回して叫んだ。
「ズリタ、そんなことを聞くんじゃないよ!」
「俺は、女の頼みには弱いんだ」と、ズリタは気取った。「快く、そうしよう」
「結婚して間もないってのに、もう尻に敷かれちまったのかい」と、ばあさんはぶつぶつ言う。
「母さん、後にしてくれ。さて、まずお前の手錠を、のこぎりで切ってやろう。まともな服も貸してやる。着替えたらメドゥーサ号に乗せてやる。それでお前は、いつでもラプラタ川に飛び込んで、好きなところに泳いで行けるってもんだ。ただし条件が一つある。グッチエーレのことは、忘れるんだ。グッチエーレ、お前も一緒に行こう。その方が確実だからな」
「あなたは、私が思っていたより、ずっといい人なのね」と、グッチエーレは心から言った。
 ズリタは満足そうに髭をひねり、そして妻にお辞儀した。
 ドロレスは、自分の息子のことを、よく知っていた。彼女は息子が策略をめぐらせていることに、すぐに気づいて、その策略を手伝うために、わざとそれに文句を言った。
「女にたぶらかされやがって! 尻に敷かれてるがいいさ!」

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