(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2005.1.15 最終更新日

23 異様な囚人

 ズリタは約束通り、のこぎりでイフチアンドルの手錠を切ってやった。そして彼に新しいスーツを着せた。
 しかしイフチアンドルが、砂に埋めてあった手袋と水中眼鏡を回収して、メドゥーサ号の甲板に戻ってくると、ズリタは船員たちに命じて、彼を貨物室に閉じ込めてしまった。
 それからメドゥーサ号を、しばらくブエノスアイレスに停泊させると、準備を整えるついでに、バルタザールの店に寄って自分の成功を自慢した。そして南アメリカの東海岸を回り込んでカリブ海で真珠を取ろうと、海岸沿いにリオデジャネイロに向かった。
 グッチエーレは、船長室にいた。ズリタからは、ラプラタ川の河口でイフチアンドルを自由にしたと聞かされていたが、それはすぐに嘘であることが発覚した。
 夜になると、イフチアンドルの叫び声やうめき声が、貨物室からかすかに漏れて聞こえてきたのだ。
 グッチエーレは、甲板にいるズリタを問い詰めようと船室を出ようとして、初めて船長室の扉に外から鍵が掛けられていることに気がついた。彼女は「誰か来て」と扉を叩き始めたが、それに応える者は誰もいない。
 ズリタも、イフチアンドルのうめきを耳にした。彼はひどく罵りながら、船員と共に、ひどく息苦しく、そして暗い貨物室に向かった。
「何を大声で叫んでやがる!」
「僕は窒息しかけてるんです。ここは暑すぎるし、僕は水がないと生きていられません。僕を海に放してくれないと、朝が来る前に死んでしまいます……」
 ズリタは貨物室のハッチを、叩きつけるように閉めて艦橋に戻ってから考えた。
(本当にヤツは窒息しかけてるのか?)。
 もしイフチアンドルが死んでしまったら、全て水の泡だ。
 彼は船員に命じて、貨物室にあった樽に、汲み上げた海水を運ばせた。
「ほら、お前の風呂だ」
 イフチアンドルは、樽に頭まで潜り込む。
「沈むんじゃない! 夜が明けたら、お前は俺のために海に潜るんだぞ」
 しかしイフチアンドルは、樽の中に潜り込んだまま、出てこようとはしなかった。
 そもそもその樽は、イフチアンドルには小さすぎるのだ。沈むなと言われても、浮くどころか、体を伸ばすことすらできず、水に浸っているためには、縮こまっていなければならない。しかもこの樽は塩漬け肉の保存用の樽だったので、あっというまにその匂いが水一杯に充満した。けれどイフチアンドルにとっては、暑い貨物室よりも、まだしもましだった。
 貨物室の入り口では、船員たちが疑わしそうに、この様子を見ていた。彼らはまだ、メドゥーサ号の囚人が、『海の悪魔』であることを知らないのだ。
 ズリタは船員たちを、怒鳴りつけた。
「さっさと甲板に行きやがれ!」
 メドゥーサ号は、海上を吹く南東の風を受けて、順調に北へ向かい始めた。
 ズリタは、長い間艦橋にいたが、夜明けが近づいたころ船長室に向かった。彼は、妻はもう眠っているだろうと思っていたが、彼が見たのは、椅子に座り、テーブルに頬杖をついている妻の姿だった。
 入り口から差し込む薔薇色の朝の光と、天井から吊るされた、焼ききれたランプの薄明かりの中で、眉をひそめたグッチエーレは、その青ざめた顔をズリタに向けている。
「私を騙したのね」
 彼女の声は、虚ろだった。
 ズリタは、静かな怒りに燃える妻の視線に射すくめられて、とても拙いことをしたような気がしてきた。その動揺を隠すために口髭をひねりながら、素早く言い訳を考える。
「イフチアンドル君は、お前と離れたくないんで『メドゥーサ号』に残りたいと言ったんだよ」
「あなたは嘘つきよ! あなたは卑しくて下劣な人間だわ。あなたなんか大嫌い!」
 突然グッチエーレは、壁に掛けられていた大きなナイフをひったくると、ズリタに斬りつけた。
「うわっ!」
 ズリタは叫びながらグッチエーレの手を素早く掴み、力を込めてナイフを落とすと、それを足で部屋から蹴りだしてから妻の手を離した。
「こんなことをするより、いいことがある! お前はずいぶん興奮しているようだから、水差しの水を飲んで、落ち着くんだ」
 そして彼は部屋から出て扉に鍵を掛けると、上甲板に出た。
 東の空には、すでに水平線の上に太陽が姿を現し、明るい桃色に染まった雲を燃え上がらせている。帆も、気持ちのいい潮風で満たされている。海面をカモメが、目を皿のようにして魚を探しながら飛んでいる。
 もう朝だ。
 甲板に上がったズリタは、手を後ろに組んで歩き回った。
「なに、俺はグッチエーレだって従わせて見せるさ」
 そして大声で、帆を降ろせと船員に命令した。
 メドゥーサ号は錨を下ろし、波に揺られ始める。
「鎖を持って来い。そして貨物室のヤツを連れて来い!」
 ズリタは、一刻も早くイフチアンドルを試してみたかった。
(それに、ヤツの体調も海で回復するだろうさ。)とも考えた。
 二人の船員に連行されてきたイフチアンドルは、疲れきっているように見えた。彼は、後方マストの傍に立ってあたりを見回す。そこから数歩の所に、船縁がある。彼はいきなり海に飛び込もうと走り出した。しかし、頭に強烈なズリタの拳の一撃を喰らい、意識を失って甲板に崩れ落ちた。
「慌てる者は損をするってな」と、ズリタは教訓を垂れる。
 ガチャガチャと、船員が端に輪のついた、細くて長い鎖を持って来ると、ズリタはその輪を、意識のないイフチアンドルに巻きつけて鍵を掛ける。
「こいつの頭に水をかけろ」
 イフチアンドルは、すぐに意識を取り戻し、そして自分にしっかりと巻きつけられた鎖を見て戸惑った。
「そうとも。お前は俺から逃げられやしない。今からお前を、海に放してやる。真珠貝を採って来い。お前は働いている間は、海の中にいさせてやる。しかし真珠貝を採って来ないなら、また貨物室の樽に逆戻りだ。いいか? わかったな?」
 イフチアンドルは頷いた。今すぐ澄んだ海水に浸れるなら、どんな宝物をズリタに差し出すことになろうが、かまわないと思うほど、気分が悪かった。
 ズリタと、鎖に繋がれたイフチアンドルと、そして船員たちは、グッチエーレがいる部屋の反対側の船縁に向かった。ズリタは、鎖に繋いだイフチアンドルを、彼女に見せたくはなかったのだ。
 海に飛び込んだイフチアンドルは、鎖が恨めしかった。この鎖を引きちぎることができたなら! しかし、とても頑丈な鎖だったので、彼はその考えをあきらめて、真珠貝を集めて、脇にぶら下げた大きな袋の中に、入れ始めた。
 体に巻きつけられた、重い鉄鎖のせいで息がしにくい。それでも、息が詰まりそうな臭い樽に比べれば、ずっといい。
 一方、船の上では船員たちが、この驚くべき光景に息を呑んでいた。
 何分も経過しているのに、そいつはまだ海の底にいて、上がってくる気配さえない。最初海面に出ていた泡も、すでに消えてしまっている。
「もし、あいつが空気を求めて喘いでいるんなら、とっくにサメがやってきて喰っちまってるはずだ。まるであいつは、水の中の魚みてぇじゃないか」
 平気な様子で海底を這いまわっているイフチアンドルを、船の上から夢中になって見ていたベテランの真珠採りが、そう言った。
「もしかすると、あいつは海の悪魔なんじゃないか?」と、船員たちは囁き始めた。
「あいつが誰だろうと、ズリタ船長はいい拾い物をしたもんさ」そう言ったのは、一等航海士だ。「あいつ一人いさえすれば、真珠採り十人がいらなくならぁ」
 太陽が頭上にくるころ、イフチアンドルは鎖を引っ張って合図した。袋が貝で一杯になり、これ以上もう入らなくなったからだ。
 袋が引き上げられると、この奇妙な真珠採りの成果を見ようと、船員たちは甲板に集まった。
 普段なら、真珠を取り出しやすくするために、真珠貝を数日腐らせる。しかし今はズリタも船員たちも、気が急いて待ってはいられなかった。そしてみんなで、ナイフを使って殻をこじ開け始めた。
 船員たちが仕事を終えた時、異様な興奮が甲板を包み、誰も彼もが騒いでいた。
 イフチアンドルが場所に恵まれたということもあるだろう。しかし、この一回の成果は、あらゆる期待を超えていた。素晴らしく大粒で形もよく、そして最高の色艶の真珠が二十もあったのだ。
 最初の一度で、すでにズリタは国を得たも同然だった。この真珠のたった一つで、性能のいい新造船を買うことができる。彼は大富豪になるという夢を、ついに歩み始めたのだ。
 しかしズリタは、船員たちが自分と同じ欲の目で、真珠を見ているのに気がついた。気に食わない兆候だ。急いで真珠を麦藁帽子に投げ込むと、こう言った。
「さぁ、朝飯の時間だぞ。しかしイフチアンドル、お前は優秀な真珠採りだ。俺の使ってない部屋をやろう。そこなら気持ちも悪くならんだろう。それから大きな亜鉛の水槽を注文してやる。そしたらお前は毎日海に入らなくてもすむからな。しかし鎖ははずさんぞ。でないとお前はカニのように潜ったまま、戻るはずがないからな」
 イフチアンドルは、ズリタと話したくなどなかった。しかし、この業突張りの囚人でいるしかないなら、生活環境については言わなければならなかった。
「水槽は、臭い樽よりずっといいけど……。結局それじゃ息ができないんです。時々水を変えてくれないと」
「どのぐらいの頻度でだ?」
「半時間に一度。常に水が入れ替わってるなら、もっといいんだけど」
「なんだと。ちょいと褒められたからと、図に乗るつもりか」
「思いつきで言ってるんじゃありません。バケツの中に大きな魚を入れたままにしておいたら、いずれ死んでしまうことを、知ってますよね。魚だって水中の酸素を呼吸しているんです。そして僕は、とても大きな魚と同じなんです」
 そう言ってイフチアンドルは、気弱げに微笑んだ。
「酸素がどうとかなんぞ知らんな……。だが確かに水を交換しなけりゃ、魚は死ぬ。たぶん、お前にはそれが必要なんだろう。ならお前の水槽には、常にポンプで水を汲み上げてやる。こいつはお前が採ってくる真珠よりずっと高くつく。俺は大赤字だ!」
 イフチアンドルは、真珠の価値も、ズリタが真珠採りや船員たちに、まともに金を払っていないことも、知らなかった。彼はズリタの言葉を鵜呑みして、こう叫んだ。
「なら僕を海に放せばいいじゃありませんか!」
 そして羨望の眼差しで海を見た。
「なに言いやがる!」
 ズリタは声高に笑い始めた。
「お願いです。そうしてくれたら僕の真珠を全部あげます。僕は以前から、真珠を集めているんです」そしてイフチアンドルは、甲板から膝ぐらいの高さを示して見せた。「すべすべで、まん丸で、どれも豆ぐらいの大きさの真珠が、このぐらいあります……。あなたが僕を放してくれたら、全部あなたにあげます」
 ズリタは息を呑んだ。そして「嘘を言うな!」と、冷たく言い放った。
「嘘なんか一度だって言ったことありません」と、イフチアンドルは怒り出した。
「ならお前の宝物は、どこにあるんだ?」と、ズリタは興奮を隠しきれなくなりながら、そう聞いた。
「海の中の洞窟に。けれど、リーディングの他には、誰もそこを知りません」
「リーディングってのは誰だ?」
「イルカです」
「あぁ、なるほどね!」
 実際ズリタは騙されているんじゃないかと考えた。
(もしこの話が本当なら、俺は想像をはるかに超えた金持ちになれるぞ。ロスチャイルドやロックフェラーが貧乏人に見えるような金持ちにだ。そのためにはまず、こいつを信用して放してやらなきゃならん。が、逃がすわけにもいかん。こいつは嘘は言ってないとは思うんだが?)
 そしてズリタはがめつく、イフチアンドルと彼の宝物の両方を手に入れる方法を考えた。
(イフチアンドルは、グッチエーレの頼みとあれば、間違いなく宝物を持ってくるだろう。)
「俺は、そうしてやってもいいかもしれん。しかしお前はまだ、俺の手元にいてもらう。俺がお前を捕まえておいちゃ悪い理由は、何もないんだからな。だが俺のところにいる間は、不本意ながら客として扱ってやろうじゃないか。居心地もよくしてやる。ひどく高くつくだろうが、水槽より鉄の檻がいいだろう。水中の檻は、海の中でお前を鮫から護ってくれるぞ」
「そうかもしれませんね。でも、僕は水と同じぐらい、空気も呼吸しなければならないんです」
「なぁに、ときどきお前ごと引き上げてやるさ。その方が水槽に水を入れるより安くつくかもしれんしな。俺にまかせとけ。お前を満足させてやる」
 ズリタは上機嫌だった。まだ水槽がないからと、イフチアンドルを再び貨物室に閉じ込めた後、船員たちには朝食にウォッカを振る舞うという、前例のないことすらした。
 そしてズリタは、ノックもせずに船長室の扉を開けると、その場でグッチエーレに真珠で一杯の帽子を掲げて見せた。
「俺は約束を守るぞ」と彼は微笑んで見せた。「俺の愛しの妻は、真珠のプレゼントが大好きだ。そして沢山の真珠を手に入れるためには、いい真珠採りが必要だ。だから俺は、イフチアンドルに固執した。見ろよ、これが今朝一回の稼ぎなんだぞ」
 真珠を一目見たグッチエーレは、驚きを隠すことができず息を呑み、それに気づいたズリタは、満足げに笑い始めた。
「お前はアルゼンチンで一番の、いやアメリカで一番金持ちの女になるぞ。なんだって手に入る。俺はお前に、王さまだってうらやむような宮殿を建ててやる。まずその手始めに、この真珠の半分を今お前にプレゼントしようじゃないか」
「いいえ! 私はそんな、罪によって得た真珠なんて一つだって欲しくはないわ!」と、グッチエーレはきっぱりと言った。「何かしてくれるって言うんなら、この部屋から出てってちょうだい」
 ズリタは困惑し、そして苛立った。こんなことになるとは思っていなかった。
「なら、もう一つ、お前は俺に望んでいることがあるはずだ。お前は俺に、イフチアンドルを放して欲しがっているだろう?」
 グッチエーレは、彼がどんな悪事をたくらんでいるのかと、疑いの眼差しでズリタを見た。
「どういうこと」と、彼女は冷たく言った。
「お前の手に、ヤツの運命が握られているってことだ。お前が頼めば、イフチアンドルは、ヤツが海の中のどこかに貯め込んだ真珠を、メドゥーサ号に持ってくる。そうしたら俺は、海の悪魔を自由にしてやる。どこへ行こうがおかまいなしだ」
「私の言うことを、よく胸に刻むのね。私はあなたの言葉を、一つだって真に受けやしないわ。あなたは真珠を手に入れたら、イフチアンドルをまた鎖に繋ぐに決まってる。私は嘘つきで不誠実な男の妻かもしれないけど、あなたの犯罪を手伝うつもりは一切ないってことを、絶対に忘れないでちょうだい。わかったらもう一度言うわ。部屋から出てって」
 これ以上話し合うことは何もなく、ズリタは部屋を出た。そして隣の自分の部屋で、慎重に真珠を袋に移し、それをトランクに仕舞い込んで鍵をかけると、艦橋に向かった。
 彼は妻とのいさかいを、それほど悲観していなかった。そして艦橋の船長席に立ち、葉巻を吸いながら、金持ちになって賞賛する人々に取り囲まれる様子を、夢想した。
 いつもは油断を怠らない彼ではあったが、その日ばかりは船員たちが集まり何か囁きあっていることに、気づいていなかった。

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