(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2005.1.15 最終更新日

25 沈没船

 ズリタを追跡して来た者たちは、今朝メドゥーサ号で何が起きていたのか、知らなかった。
 実は昨夜から朝まで船員たちは話し合って、隙をついてズリタを殺し、イフチアンドルと帆船を自分たちの物にしようと決めたのだ。
 早朝ズリタは、艦橋に立っていた。メドゥーサ号は、ここ何時間かおおむね三ノットのスピードで、そよ風に乗ってゆっくりと進んでいた。彼は双眼鏡で海を監視して、沈没船の目印となるマストを探していたが、まもなく海面に浮かんでいる救命浮き輪に気がついた。彼は、船員にボートを下ろしてその浮き輪を取って来させると、そこに書かれた文字を読んで驚いた。
(マファルダ号。マファルダが沈没したのか?)
 彼は、このアメリカの大きな郵便客汽船を知っていた。この汽船なら、たくさん値の張る物を積んでいたに違いない。
(もしイフチアンドルを、金目のものを取りに沈没船にやったとすると、鎖の長さは充分足りるだろうか? まず無理だ……。しかし鎖なしでイフチアンドルを行かせたら、あいつは戻って来るはずがない……。)
 ズリタの心の中で、イフチアンドルを失う危険性と、目の前のお宝に対する欲が、せめぎあった。
 メドゥーサ号が、ゆっくりと水面に出たマストに接近すると、船員たちは前方の船縁に集まった。
 風がぱたりと止んで、メドゥーサ号が停止する。
「おいらは以前、マフィルダ号で働いたことがあるけど」と、船員の一人が話している。「大きくていい汽船だったよ。金持ちたちが、アメリカ中の全ての町から、このマフィルダ号に乗りにやってきたもんだ」
(無線で連絡する間もなく沈没したのは明らかだ)と、ズリタは考えていた。(たぶん無線機が壊れたに違いない。でなけりゃ今頃このあたりは、港から到着したお偉いさんを乗せた高速モーターボートや、グライダーや、ヨットや、それから新聞記者とカメラマンとレポーターと映画技師と潜水士でいっぱいになって、遭難者を助けているはずだ。
 鎖なしでイフチアンドルを放すのは危険だが、そうする以外方法はない。しかし、間違いなく戻って来させるには、どうすりゃいい? それに、あいつの身代金の真珠の山を取りにやらせるのと、どっちが危険だ? しかし真珠の山は、本当に全部が高価なものだろうか? イフチアンドルは大げさに言ってるんじゃないだろうか? もちろんヤツには、真珠の山も、マフィルダ号の貴重品も、両方取ってこさせなきゃならん。真珠の山を取って来ることができるのは、イフチアンドルだけだ。イフチアンドルが俺の手元にいるかぎり逃げやしない。しかしマフィルダ号の貴重品は数日か、あるいは数時間で、手が出せなくなっちまう。よし、マフィルダ号が先だ。)
 ズリタは決心し、錨を下ろすように命令すると、船長室で短い手紙を書き、それを持ってイフチアンドルの部屋に向かった。
「イフチアンドル、お前は字を読めるか? グッチエーレがお前に書いた手紙を持って来たぞ」
 イフチアンドルは、急いで手紙を読んだ。
『イフチアンドル! 私の願いを聞いてください。
 メドゥーサ号の隣に、汽船が沈没しています。海に潜って、その船から貴重品を全部持ってきてください。ズリタは鎖なしであなたを行かせるでしょうが、メドゥーサ号に、必ず戻ってきてください。私のために、そうしてください。イフチアンドル。そうすればあなたは自由になれます。
 グッチエーレより』
 イフチアンドルは、グッチエーレから手紙を貰ったことがなかったので、彼女の筆跡を知らなかった。彼は手紙をもらったことが嬉しかったけれど、すぐに考えた。
(ズリタが騙してるんじゃないだろうか?)
 イフチアンドルは、手紙を指した。
「なぜグッチエーレは、僕に直接話さないんですか?」
「体調が悪いんだよ。だが、お前が戻る頃には、会えるだろうさ」
「なぜグッチエーレが、貴重品を欲しがるんですか?」と、イフチアンドルは疑った。
「もしお前が人間ってやつを知っていりゃ、そんな質問はしないだろうな。美しいドレスを着て、高価なアクセサリーを身につけたいと思わない女がどこにいる? しかしそれには、金が必要なんだ。そして沈没した汽船には、金が沢山ある。それは今、誰の物でもない。ならなんでお前が、グッチエーレのために、それを取って来ちゃいかん訳がある? 大事なのは、金貨を見つけることだ。郵便局の皮製のかばんに入っているに違いない。それに乗客も、金の指輪をしているだろう……」
「あなたは僕に、死体を漁れって言うんですか?」と、イフチアンドルは憤慨した。「あなたは信用できません。グッチエーレは、そんな欲張りじゃありません。彼女が僕に、そんなことを頼むはずありません……」
「くそったれ!」と、ズリタが叫んだ。
 今イフチアンドルを騙すことができないなら、計画は失敗したも同然だ。
 ズリタは自分を落ち着かせ、愛想笑いをしながらこう言った。
「わかった。お前を騙すことはできないようだ。お前には正直に話すから、よく聞いてくれ。グッチエーレはマフィルダ号の財宝など欲しがってない。これならお前は信じるか?」
 イフチアンドルは、思わず微笑んだ。
「もちろんです!」
「お前は俺を信じたってわけだな。これで話し合えるってわけだ。そう。金を欲しがっているのは俺だよ。そしてもしマフィルダ号に、お前の真珠と同じぐらい財宝があり、お前がそれを俺のために手に入れてくれれば、俺はお前を海に放してやろうと考えた。
 しかし、お前は俺を信用していないし、俺もお前を信用できない。俺は、鎖をつけずにお前を海にやったら、潜ったまま戻ってこんだろうと恐れている……。もし俺が、お前が戻ると信じることができなけりゃ、俺はお前を行かせられない。俺は今まで一度だって、お前が戻って来るだろうなんて思っちゃいない。
 そしてお前は俺が嫌いだ。でなかったら驚きだな。だからお前が戻ると言って、その言葉を守らなかったとしても、驚きゃしない。
 しかしお前は、グッチエーレが好きだ。グッチエーレの頼みなら、お前は自分から引き受ける。そうだろ?
 彼女はもちろん、俺がお前を手放すことを望んでいる。
 そこで、俺と彼女の意見が一致した。
 だから彼女は、お前が自由になることを望んで手紙を書き、お前に渡してくれと俺に渡したと、そういうわけだ。今のこの話は、納得できるか?」
 まことしやかなズリタの話は、イフチアンドルには何から何まで、もっともらしく思われた。
 ただ、イフチアンドルは、見落としたことがある。どんなにマフィルダ号に金があったとしても、その財宝が真珠より価値があったら彼を放すといっても、その評価をするのはズリタだということだ。
(比べるためには、イフチアンドルは真珠も持ってこなければならなくなる。しかしその時俺は、マフィルダ号の金と、真珠と、そしてイフチアンドルを手に入れるんだ。)と、ズリタは自分に言い聞かせた。
 しかしイフチアンドルは、ズリタがそんなことを考えているとは、思ってもいなかった。彼は考え、ズリタの率直さに納得し同意した。
 ズリタは安堵のため息をついた。
(こいつは俺を、騙しちゃいない。)と、彼は考え「よし、さっさとすませよう」と言った。
 イフチアンドルは急いで甲板に上がり、海に飛び込んだ。
 船員たちは、鎖無しで海に飛び込んだイフチアンドルを見て、ズリタが彼にマフィルダ号の財宝を取りに行かせたのだと、すぐにわかった。
 何から何までズリタが独り占めするのか? そうであってたまるものか。そして彼らは、ズリタを急襲したのである。
 船員たちがズリタを襲っている時、イフチアンドルは沈没船を調べ始めていた。
 上甲板から大きな昇降口を通り、イフチアンドルは下へと泳いだ。それは大きな家の階段のようで、広い通路に通じていた。そこはかなり暗かった。ただ、開いた扉から差す薄明かりだけが、あたりを照らしている。
 イフチアンドルは泳いで、その開きっぱなしの扉の一つに入ると、大広間だった。大きな丸窓から差す光が、一度に数百人が入れる巨大なホールを、ぼんやりと照らしている。イフチアンドルは、豪華なシャンデリアに座って、あたりを見た。
 それは奇妙な光景だった。
 木の椅子と小さなテーブルは浮かび上がり、天井で揺れていた。蓋の開いたグランドピアノが、柔らかな絨毯に覆われた床にある小さな壇上に立ち上がっていた。ニスで塗装されたマホガニーの壁は歪み、一方の壁ぎわに椰子が集まっていた。
 イフチアンドルはシャンデリアから離れて、椰子に向かう。
 突然彼は驚いて止まった。誰かが彼の方に泳ぎ、彼の動きを真似ている。
(なんだ、鏡か。)
 その大きな鏡は、薄暗い水の広間の壁の一方を占領し、内部の装飾を全て映していた。
 見たところ、ここに宝物はなさそうだ。
 イフチアンドルは大広間から出て、デッキを一つ降りる。そこも上とよく似た豪華な場所で、広いサロンと、レストランのようだ。ビュッフェのレジやカウンターとそのあたりの床には、ワインのビンと食料の缶詰や箱が、かたまっていた。
 水圧によって、大半のビンの栓は中に打ち込まれ、箱は潰れている。
 テーブルの上に、一人前の食器が並べられている。けれど床には、皿の破片や、銀のフォークやナイフが、散乱している。イフチアンドルは、この船室に、責め立てられているような気がし始めた。
 それからいくつかの、アメリカの快適さの象徴のような船室を見て回った。けれども、そこに死体は一つもない。第三デッキの部屋で一度、膨張した死体が天井付近で揺れているのを見ただけだ。
(たぶん、みんなボートで逃げ出したんだな。)
 けれど、さらに下のデッキにある三等室に降りると、彼はひどい光景を目の当たりにした。
 船室には、男も、女も、子どもたちも残っていた。白人も、中国人も、黒人も、インディオもいた。
 汽船の船員たちは、ファーストクラスの金持ちの乗客たちをまず避難させ、他の者を運命の手にゆだねたのだ。
 その部屋の出入り口は死体で塞がれ、イフチアンドルは入ることができなかった。人々はパニックを起こして出口に殺到し、お互いを押しのけ合い、最後の望みをかけて助かろうとしたに違いない。
 人々がゆっくりと、長い通路を漂い、開いた丸窓から流れ込む水が、膨れ上がった死体をふらふらと揺らしている。イフチアンドルはぞっとして、この水中の共同墓地から急いで泳ぎ離れた。
(グッチエーレが知ってたら、僕をこんな所に来させるだろうか。彼女は僕に、死んだ男のズボンのポケットを引っくり返して、中身を漁らせようとしたんだろうか? いいや、彼女はあんな手紙は書きはしない!)
 彼は、またもズリタに騙されたのだと確信し、決着をつけることにした。
(海面から、グッチエーレを甲板に呼び出そう。そして彼女の意思を確かめるんだ。)
 まるで魚のように、いくつものデッキを通り過ぎ、そして海面に出ると急いでメドゥーサ号に近づいた。
「ズリタ! グッチエーレに……!」
 しかし誰もそれに応えない。メドゥーサ号は沈黙したまま、波に揺れている。
(これもズリタの策略だろうか?)
 イフチアンドルは、慎重に船に近づき、そして甲板に登り、再び叫んだ。
「グッチエーレ!」
「俺たちはここだ!」
 海岸から、ズリタの声が微かに聞こえてきた。見ると、海岸の茂みから、ズリタがこちらを伺っている。
「グッチエーレが急病だ! イフチアンドル! こっちへ来い!」
 グッチエーレが病気! 彼は彼女に会おうと、海に飛び込み、そしてスピードを出すために水面に出た。そして海から上がろうとした時、くぐもったグッチエーレの声を聞いた。
「嘘よ! 逃げてイフチアンドル!」
 彼は向きを変え海に潜り、そしてそのまま泳いで海岸から充分はなれてから、海面に上がって振り返った。
 海岸に、白いなにかがゆらめいる。
 グッチエーレが、彼が逃れたことを喜んでいるのだろう。
 彼女とまた、会うことができるのだろうか?
 ……。
 イフチアンドルは、急いで沖へ出た。
 切っ先で白波を蹴立て、白い航跡を残しながら、はねるように南に駆けていくる小さな船が、遠くに見えた。
(人間には近づかないようにしよう。)
 イフチアンドルは、海の中に深く潜って姿を消した。

次へ