(C)hosoe hiromi
 "■このごろ堂へ"はまりもの両棲人間HOME

アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

細江版翻訳

2005.1.15 最終更新日

30 拘置所

 専門家たちは、イフチアンドルについて、彼の肉体的特質だけでなく、知能についても注意深く調査しなければならなかった。
「今日は何年? 何月? 何曜日?」
 こうした質問に、イフチアンドルはこう答えた。
「知りません」
 彼は常識的な質問に答えられなかった。しかし知能に異常は認められず、いろいろなことを知らないのは、育った環境と教育のためであり、彼は子供のまま大きくなったように見えた。結局、専門家たちは「イフチアンドルには、責任能力がない」と、判定した。そのため、イフチアンドルに対する告訴は取り下げられたが、そのかわり彼に後見人をつけることになった。
 二人の男が、イフチアンドルの後見人を希望した。ズリタと、バルタザールである。
 サルバトール博士は、ズリタが報復のために法廷に訴えたと言ったが、ズリタは博士に、イフチアンドルを手に入れそこねた仕返しをしたかったわけではなく、手をかえたのだ。彼は再びイフチアンドルを手に入れるため、後見人の座を狙ったのだ。そのために、ズリタは高価な真珠のうち十個を、賄賂として惜しみなく裁判所の役人に渡したのだ。
 今ズリタは、目的に近づいていた。そして自分勝手な確信を持って、結果を待っていた。
 バルタザールも、実の父親として後見人に名乗り出たが、しかしながら、こちらはあまり見込みがなさそうだ。ラーラのあらゆる努力にもかかわらず、イフチアンドルが、二十年前に生まれたバルタザールの息子だと証明することは、できなかった。証言をする者がたった一人で、他に証人もなく、しかもそれがバルタザールの兄弟では、信憑性はまるでないと判断されたのだ。
 ラーラは、司教と検事長が、この問題に干渉していることを、知らなかった。
 バルタザールは、ただ子どもを取り上げられ、生体改造されて苦しむ父親として、裁判の過程で必要とされたものの、イフチアンドルを完全に抹殺したいと考えている裁判所および教会の利害とは、一致しなかったのだ。
 クリストは、バルタザールを心配し、何かと世話を焼いていた。
 バルタザールは、バルタザールは一日中、眠ることも食べることも忘れて深い悲しみに沈み込んでいたかと思うと、突然興奮して椅子から立ち上がり大声でこう叫ぶ。
「俺の息子、俺の息子!」
 そして、ありとあらゆる罵詈雑言で、あらゆるスペイン人を罵り始める。
 一度バルタザールは、このような発作の後で、唐突にクリストに、こう言った。
「俺は拘置所に行く。看守に俺の最高の真珠をくれてやれば、イフチアンドルと会わせてくれるはずだ。俺はあの子と話をする。そうすりゃ、あの子にも俺が父親だとわかるはずだ。息子に父親が、わからんはずがない。血が繋がってるんだからな」
 クリストは、弟を思いとどまらせようとしたが、バルタザールは頑として聞き入れなかった。
 バルタザールは拘置所に向かい、看守に泣いて頼み込み、足にすがりついて懇願し、そして次々と真珠を与えながら拘置所の奥へと入り込み、ついにイフチアンドルの監視室にたどり着いた。
 その監視室は、小さな鉄格子のある窓から光が差すだけの薄暗い部屋で、窓の反対側の壁際に、鉄の水槽が置いてある。看守は、監視室の水槽の水を滅多に代えようとしなかったし、床で腐っている、奇妙な囚人の食事の残りを、片付けようともしなかったので、臭く息苦しかった。
 バルタザールは水槽に近づき、イフチアンドルを隠している暗い水面を見た。
「イフチアンドル!」
 バルタザールは静かに呼んだ。
「イフチアンドル……」
 そして、もう一度。
 水面にさざ波が立ったが、彼は水の中から現れなかった。
 しばらく待った後で、バルタザールは生暖かい水に腕を突っ込んだ。
 その手が肩に触れる。
 水槽から突然、手を押しのけるように、イフチアンドルの濡れた頭が現れた。
「誰ですか? あなたは僕に、何の用があるんですか?」
 バルタザールはひざまずき、手を伸ばし、急いで言った。
「イフチアンドル! 父さんがお前のところにやってきたんだよ。お前の本当の父さんだよ。サルバトールは、お前の父親じゃない。サルバトールは悪いヤツだ。お前を傷つけた……。イフチアンドル! イフチアンドル! 俺をよく見てごらん。俺が必ず助けてやるからな。お前には、本当の父さんがわかるだろ?」
 青年の豊かな髪から水が滴り、青白い顔を流れて、顎から滴った。
 悲しそうに、そして少し驚いた様子で、年配のインディオを見た。
「私はあなたを知りません」
「イフチアンドル」バルタザールは叫んだ。「俺をよく見るんだ!」
 いきなりバルタザールは、イフチアンドルの頭を引き寄せ、熱い涙を流しながら、口づけはじめた。イフチアンドルは思いがけない抱擁に驚き、水槽に逃れようとして水面に小さな渦巻きを作り、水は水槽の端をつたって石の床に溢れ出た。
 突然誰かがバルタザールの肩をぐいと掴み、彼を部屋の隅に放り出した。
 バルタザールは大きな音を立てて床に打ち突けられ、石の壁に頭をひどくぶつけてしまった。
 目を開いたバルタザールが見たのは、彼を痛めつけたズリタの姿だ。
 ズリタは右手を握り締め、左手には一枚の紙を持ち、それをバルタザールの前に突き出した。
「こいつが見えるか? 俺をイフチアンドルの後見人に命じるという公文書だ。お前は余所で金持ちの息子を見つけるんだな。しかし俺は、夜が明けたらコイツを連れていく。わかったか?」
 バルタザールは、床に伸びたまま、意味不明の唸り声を上げていた。しかし次の瞬間、雄たけびを上げて、彼の腕に飛び掛り、そして狂ったように叫びながら、敵が手の中の物を奪い取る。そして、ひったくった公文書を自分の口に突っ込んで、スペイン人を罵り始めた。
 壮絶なケンカが始まった。
 両方から賄賂を貰った監視室の看守は、中立を決め込むことが自分の義務だと考えて、手に鍵を持ったまま出入り口に立ち、その戦いを誰かが邪魔しないように見張っていた。しかし、さすがにズリタがバルタザールの首を締め始めると、飛びついた。
「貴様、絞め殺す気か!」
 しかしズリタは頭に血が上って、もはや看守の言葉など耳に入らず、もしそこで監視窓のところに別の人物が姿を現さなかったら、バルタザールを殺していただろう。
「いや素晴らしい! 後見人殿は、今後彼がどのような義務を負うのか、その身を持って教えているというわけか!」
 サルバトール博士の声だった。そして博士は、まるでこの拘置所の所長であるかのように、看守をしかりつけた。
「君は何を見ているのかね? それとも君は、君の義務が何であるのかを知らないのかね?」
 サルバトールの叱責は、すぐさま効果を表し、看守は慌てて二人を引き離しにかかり、また物音を聞きつけた他の看守もやってきて、ズリタとバルタザールを異なる壁際に引き離した。
 ズリタは、イフチアンドルをめぐる一連の争いの勝者であるはずだ。しかし負けたサルバトール博士は、にもかかわらず、そのライバルよりも強かった。拘置所でさえ、この監視された囚人という地位にあってさえ、サルバトール博士は、物事と人々を支配することをやめなかった。
「この戦士たちを、監視室から連れ出しなさい」と、サルバトールは命令した。「私は内密の話をするため、イフチアンドルとここに残る」
 ズリタとバルタザールの抗議と文句にもかかわらず、看守はその言葉に従って二人を連れ出し、監視室の扉がバタンと閉めた。
 騒ぐ声が廊下を去り、静けさがあたりを支配すると、博士は水槽に近づいてイフチアンドルに呼びかけた。
「イフチアンドル、水槽から出て監視室の中央に出てきなさい。私はお前の健康状態を診察する必要がある」青年が従うと、「そして」と、博士は続けた。「光の差している場所に寄りなさい。息を吸って。もっと深呼吸して。息を止めて。そうだ……」
 博士はイフチアンドルの胸を打診して、彼の途切れがちな呼吸を聞いた。
「息が苦しいのか?」
「はい、お父さん」
「お前が悪いのだ」と、サルバトールは答えた。「お前があまりにも長い間、空気の中にとどまりさえしなければ、こうはならなかったのだ」
 イフチアンドルは頭を垂れ、そして考えた。そして博士を真っ直ぐに見つめて尋ねた。
「お父さん。でもどうして、そうしてはだめなんですか? みんなにはできることが、どうして僕にはできないんですか?」
 この暗なる叱責に満ちた視線を受け止めることは、サルバトール博士にとっては、法廷で答えることよりも、いっそう難しかった。しかし博士は、逃げなかった。
「お前には他の人々にはない、水中で生きるという能力があるからだ……。
 もしお前が、どちらか片方を選ぶことができるならば、そしてどちらかしか選べないとしたら、地上で生きることと、水中で生きることと、イフチアンドル、お前はどちらを選ぶかね?」
「僕にはわからない……」
 彼は、考え込んだ。水中の平和も、グッチエーレがいる地上も、同じぐらい大切だった。けれど、グッチエーレは、もういない……。
「今の僕には海の方が大切だと思う」
「イフチアンドル、お前はすでに、選んでしまったのだ。お前が言いつけを守らなかったために、体のバランスは崩れてしまった。今のお前は、水の中でしか生きられない」
「けれど、こんなにもひどく汚れた水の中にはいられません。僕は死んでしまいます。僕は海へ帰りたい!」
 サルバトール博士は、ため息をこらえた。
「私はお前をこの拘置所から解放するために最善を尽くそう。イフチアンドル、勇気を出すんだ!」
 博士は、イフチアンドルの肩を軽く叩き、監視室を出て、自分の監視室に戻ると、狭いテーブルの前にある腰掛に座って、考え込んだ。
 外科医の当然として、彼もまた失敗とは無縁ではなかった。失敗とは、彼の腕がまだ未熟である時に、その手違いによって彼のメスの下に死んだ、多数の人々の命である。
 しかしながら彼は、その犠牲者たちのことを、決して思い悩まなかった。十人は死んだが、千人は救い、その数字に彼は満足していた。
 イフチアンドルでなければ、彼は彼自身の方が重要であると、考えていただろう。しかし、イフチアンドルは、彼の誇りだった。
 この若者を、最良の仕事の成果と同じぐらい、愛していた。
 さらに言うなら、イフチアンドルとの人間関係を、そして彼自身を、息子として愛していた。
 イフチアンドルの病気のことを、そしてどうなるかわからない彼の運命のことを、サルバトール博士は心配していた。
 誰かが監視室の扉をノックした。
「入ってもよろしい!」と、博士は答えた。
「博士先生、おじゃましてもよろしいでしょうか?」
 拘置所の所長が、部屋に静かに入ってきた。
「いいや、まったく」と答えながら、サルバトールは立ち上がった。「君自身も、奥さんも子どもさんも調子はどうかね?」
「ありがとうございます。みな上々です。ですので私は、家族を遠いアンデスの、義理の母の所に向かわせました……」
「うむ。山地の気候は、彼女たちの健康によいからな」
 所長は、部屋を出ていかなかった。出入り口からあたりを見回し、それからサルバトールに近づくと囁いた。
「先生! 妻の命を救って下さったことを、感謝しております。私の最愛の妻なのです……」
「感謝の必要はありません。感謝は、私にとって、負担にすぎませんからな」
「先生への私の借りを、そのままにしておくことはできません。私は教養のある人間じゃあありませんが、先生の素晴らしさは、新聞で知っております。こんなに素晴らしい方を、浮浪者や強盗と一緒に刑務所に入れるなど、許されることではありません」
「同業の私の友人たちは」と、博士は微笑んだ。「私を精神異常者と一緒に、療養所に入れようと考えたようだよ」
「療養刑務所なんて、刑務所と変わりません」と、所長は反対した。「それどころか、もっと悪いですよ。強盗のかわりに、あなたを狂人で取り囲むなんて。気のふれた連中の中に先生がいる! ダメです、ダメですとも、そんなことがあってはなりません!」声を小さくして、所長は続けた。「全て考えた上で、私は決心して家族を山にやったのです。先生の脱獄を手配し、私自身も身を隠します。しかたなく、ここで働いていましたが、私はこの仕事が嫌いなんです。私は誰にも見つかりません。しかし先生は……。先生は、この呪われた国を出てください。ろくでもない司祭と商人がのさばっていない、別の国へ。
 それにもう一つ、先生にお知らせしなければならないことがあります」
 そして彼は動揺を見せ、そして先を続けた。
「これから話すことは、私の公務上の秘密、州の秘密です……」
「明かす必要はありません」と、博士は遮った。
「はい。しかし……。私には、黙っていることなどできません……。それになにより、私は、私に与えられた恐ろしい命令を、実行することなどできないのです。話さなければ、命ある間、私の良心が私を責め続けるでしょう。先生は私のために、本当に良くしてくださったのに、あいつらは……。私にさらなる罪を犯させようとする当局に、どうして感謝できますか」
「さらに?」
 博士は手短に尋ねた。
「そうですとも。バルタザールもズリタも、イフチアンドルの後見人にはなれません。ズリタは、高額賄賂を使って命令書を手に入れましたが、彼を手に入れることはできないのです。なぜなら……、イフチアンドルは殺すと、決まったからです」
 微かに博士が、動揺した。
「どういうことです? 続けなさい!」
「はい、司教がイフチアンドルは殺せと、言い張ったのです。口には決して『殺せ』と出しませんでしたが。私は毒を渡されました。青酸カリだと思います。今夜私は、イフチアンドルの水槽に、これを入れなければなりません。拘置所の医者も、すでに買収されています。イフチアンドルは、あなたの両棲人間にするための手術が原因で死んだと、診断することになっているのです。もし私が命令を実行しなければ、ひどくまずいことが私の身に降りかかるだろうと、ヤツらは言外に匂わせました。私にも家族があります……。ヤツらは誰に知られることなく、私を殺すでしょう。それがヤツらのいつもの手なんです。これまでも私は犯罪を……、たいしたことのない……、ほとんど偶然に……。しかし今回ばかりは、もし私が命令に従ったとしても、彼らは私を永久に黙らせるに違いないのです。
 私は逃げ出すことにしました。既に逃亡の準備を整えました。
 私にはできません。私はイフチアンドルを殺したくはありません。けれど、短時間にお二人ともを救うことは、あまりにも難しすぎます。。けれどお一人でしたら、私にも助けることができます。よく考えました。イフチアンドルのことは、痛ましいと思います。しかしあなたの命の方がより貴重です。あなたの腕があれば、別のイフチアンドルを作ることはできますが、世界の誰に、サルバトール博士を作り出すことができるでしょう」
 博士は所長に近づいて、手を握った。
「私はあなたに感謝します。しかし、私のためにあなたが犠牲になることは、私には受け入れられません。彼らはあなたを捕まえ裁くでしょう」
「犠牲になどなりません! すべて考えてあるのです」
「待ちなさい。私は私のために、あなたが犠牲になることなど受け入れることはできません。しかし、もしかなうなら、私よりもイフチアンドルを助けて欲しいのです。私は健康で丈夫です。そして私はどこにいても、私の解放を手伝ってくれる友人を見つけることができます。しかし、イフチアンドルは、一刻も早く自由にしてやらなければならないのです」
「それが先生のご希望なのですね」
 彼が行ってしまうとサルバトールは微笑んで、独り言を言った。
「これでいい。争いの種は、誰も手にしないことが一番だ」
 そしてサルバトール博士は部屋を歩きながら、静かに囁いた。
「かわいそうに!」
 そしてテーブルに近づき、何か手紙を書くと、扉に近づいてノックした。
「所長に用があると伝えなさい」
 所長が現れた時、博士はこう言った。
「一つ、追加したい頼みがあります。私をイフチアンドルに合わせて欲しい。最後の面会をしたいのです!」
「簡単な事ですよ! 偉いさんは誰もいませんから、私たちの望むところ拘置所のどこにでも」
「それは素晴らしい。では、もう一つ助けて欲しいことがあります」
「なんでもおっしゃってください」
「イフチアンドルを自由にしてくれれば、とてもありがたい」
「先生、私を助けてくださったのは、先生以外におりません……」
「私たちの貸し借りは、これでなしです」と、サルバトールは遮った。「しかし私は、あなたの家族を手助けしたいのです。ここに短い手紙があります。この手紙には住所と、ただサルバトールの『S』が一つ書いてあるだけです。ここへ向かいなさい。彼は信頼できます。もしあなたが一時的に姿を消さなければならないなら、あなたにはお金が必要となるはずです……」
「しかし……」
「『しかし』は、なしです。私を早く、イフチアンドルのところに連れていってください」
 監視室にサルバトールが現れた時、イフチアンドルは驚いた。イフチアンドルは、これほど悲しそうで、同じくらい優しそうな博士を、今まで一度も見たことがなかった。
「イフチアンドル。我が息子。私が思っていたよりも早く、お前と別れなければならない時がやってきた。そしてそれはたぶん長期に渡るだろう。お前の運命について、私は思い悩んだ。何千という暗礁が、お前を取り巻いている……。もしここに残れば、お前は死んでしまうだろう。良くてもズリタや、似たような猛獣の囚人となるということは、わかっているね」
「お父さんは?」
「裁判所は、もちろん私に有罪を宣告するだろう。そして私を、おそらく二年かそれ以上、刑務所に閉じ込めるだろう。私がここから遠く離れた刑務所にいる間、お前はさらに遠く離れた安全な場所に逃れなさい。
 そこは、ここからはるか遠く、南アメリカの向こう側の、太平洋にあるツアモツ諸島の中の、海抜の低い小さな島の一つだ。
 そこまで行くのは容易ではないだろう。しかしあらゆる危険の中で、ここで、家やラプラタ湾で、お前に降りかかるだろう運命は、暗礁などとは比較にならぬほど危険なものなのだ。
 そこまでどうやって行くか? 南アメリカの北か南を周って行くわけだが、それぞれに利点と欠点がある。
 北周りの方が幾分距離がある。こちらを選べば大西洋から太平洋に出るために、パナマ運河を泳いでいくことになるが、これは危険を伴う。お前は、特に水門のところで捕まる可能性があるし、あるいはお前のちょっとした不注意で、船に押しつぶされてしまうかもしれない。運河はあまり広くもなく、そして深くもないからだ。もっとも大きなあたりで幅九十一メートル、深さ十二メートル半だ。最近の大型外洋汽船の竜骨は、ほとんど底に着いてしまう程度しかない。
 しかしお前は、常に暖水を泳いで行くことができる。さらにパナマ運河から西へは、主な外洋航路が三つある。二つはニュージーランドに。一つはフィジー諸島を通過してさらに向こうに。
 その汽船の後をついて行くか、あるいはつかまって行けば、ほとんど目的地の近くまで達することができる。ニュージーランドへ向かう航路は、どちらもツアモツ諸島のある海域を通っているから、お前はその少し北へ向かう必要があるだけだ。
 南の端を回れば近いが、けれどもお前は、冷たい南の海を泳ぐことになる。特にお前が南アメリカの南端の、ファゴ諸島のホーン岬を回る時には、流氷が漂う付近を泳ぐことになる。さらにマゼラン海峡のあたりは嵐が多い。もちろんお前にとって嵐は、船に対するほどには危険ではないだろうが、それでも危険なのだ。そこは今でも帆船の墓場なのだ。
 特に海峡が狭くなる西側では、崖の傍に小島や砂洲がある。とても強い西風が、東に海の水を追い立てる。つまりお前に向かって。水中にあってさえ、その渦はお前にとって致命的だろう。それゆえお前は、マゼラン海峡を泳ぎきるより、遠くなってもホーン岬を周っていく方がいいだろう。海水は少しずつ冷たくなっていくから、それにお前は少しづつ馴れ、そして健康を維持するのではないかと望んでいる。
 お前には食料の心配はないだろう。海では水と共に、いつでも手に入るし、お前は小さなころから海の水を飲んできたが、健康にはどんな害もなかった。
 ホーン岬からツアモツ諸島に行く方法は、パナマ運河を通った時よりも、かなり難しい。ホーン岬から北へ向かう汽船の外洋航路はないからだ。
 私はお前に、正確な距離と緯度を教えよう。お前は私がお前のために作った特別な道具を使って、位置を知ることができるだろう。しかしこの道具は少々かさばり、動きにくくなるかもしれん……」
「僕はリーディングと一緒に行きます。彼なら僕と荷物を運んでくれると思います。僕は、彼を置いて行くことなんてできません。そんなことをしたら、彼は恐らく寂しがるでしょうから」
「どちらがよりいっそう寂しがるかわからないがな」と、サルバトールに微笑みが戻った。「しかしリーディングを連れて行くのはいい考えだ。お前はツアモツ諸島に行き着くだろう。お前はそれから人里離れた場所にある珊瑚礁を見つけなければならない。目印は、マストの上に取り付けられた、大きな魚の形の風見鶏だ。これを見落としてはならない。できるかぎりじっくりと慎重に、これを探しなさい。この諸島で二ヶ月か三ヶ月を使っても、それは問題ではない。水は温かいし、牡蠣は沢山いるはずだ」
 根気良く教えるサルバトールの話に、イフチアンドルは口を挟まず、じっと耳を傾けていた。しかしイフチアンドルは、ここで聞かずにはいられなくなった。
「風見鶏の島で、僕は何を見つけるんですか。魚ですか?」
「友だちだよ。親切な親友たちだ」と、サルバトールは答えた。「そこに住んでいるのは、私の古い科学者の友人で、フランス人の高名な海洋学者、アルマン・ヴァルボアだ。以前私が、ヨーロッパに長期滞在していときに紹介され、そして友だちになったのだ。アルマン・ヴァルボアは興味深い人物だが、今それを話している時間はない。お前は彼自身から、なぜ彼が太平洋の辺鄙な珊瑚礁に住んでいるのか、聞くといい。
 しかし彼は、孤独ではない。彼は優しい妻と、息子と、その島で生まれた娘と一緒に暮らしている。彼女は今年で十七、そして息子は二十五だ。
 私はすでに、お前のことを手紙で知らせてある。そして彼らはお前を家族の一員として受け入れると、私は信じている……」博士はわずかに、言葉を切った。「確かに、今のお前は、あまり長く水中から出ていられない。だが、新しい友だちと出会い付き合っていれば、日中数時間は、海岸に出られるようになるだろう。そして健康が回復したら、以前のように、水中と同じように空気中に留まることができるようになるはずだ。
 アルマン・ヴァルボアを、お前の二人目の父親だと思いなさい。お前は、彼の海洋学の科学的研究にとって、かけがえのないアシスタントとなるだろう。お前の海と海の生き物についての知識は、十人の博士が束になってもかなわないからな」と、博士は微笑んだ。「裁判所の、型にはまった気難し屋の学者たちは、お前に今日は何月の何日かなどという、お前にとって何の重要性もないことを質問したのだから、答えられないのは当然のことだ。もし彼らが、海の潜流や、水温や、ラプラタ湾の塩分とその環境について尋ねたなら、科学の事典ほどもお前は答えられただろうに。
 お前はもっともっと学ぶことができる。そしてもしお前が水中を巡り、この経験豊かで才気溢れる科学者を導くならば、アルマン・ヴァルボアと共にお前は、その知識を人々に伝えることができるだろう。お前が海洋学の研究をし、それを編纂すれば、それは海洋学の分野で画期的なものとなり、人類全体の平和に貢献するはずだ。その時お前の名前は、アルマン・ヴァルボアの名前と共に残されるだろう。お前はそうやって、自分が科学によって人類に貢献したことを、人々に知らしめなければならないのだ。
 しかしここに残るならば、お前は金目当の無知な人々の利害関係の底辺として、扱われるだけだ。私は美しい珊瑚礁の海と、アルマン・ヴァルボアの家族の中に、お前は静かな桟橋を見つけ、それがお前の幸せになれると、私は信じている。
 もう一つ言っておくことがある。お前は今夜中に海に放たれる。すぐに水中のトンネルを使って家に向かいなさい。家にはジムがいるだけだ。そして航海の道具やナイフなどを手に入れ、日が昇る前に海に戻り、リーディングを見つけなさい。
 さようならイフチアンドル! いや、また会おう!」
 サルバトールは、生まれて初めてイフチアンドルを抱きしめ、強く口づけた。そして微笑み、そして彼の肩を叩いてこう言った。
「これほど素晴らしい者は、なんだって切り抜けられるとも!」
 そして彼は急いで部屋を出ていった。

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