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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2003.11.12
2005.1.15
2020.06.05
2023.10 最終更新日

第十章   イフチアンドルの一日

 夜明けは近かったが、朝の気配は微塵もない。
 木蓮、月下香、木犀の甘い香りがまじりあった、湿った暖かい空気が満ちていた。
 静寂があたりを覆い、一枚の葉すら微動だにしない。
 イフチアンドルは、庭の砂を引いた小道を歩いている。ベルトにぶら下げた短剣・水中眼鏡・蛙のような手ビレと足ヒレが、リズミカルに揺れている。貝殻のまじった砂を踏む足音だけが、そっと響いている。道はほとんど目に見えない。木々や藪が、闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。靄がプールから立ち上っている。ときおりイフチアンドルが、枝をひっかけると、髪や温かな頬に露が落ちてくる。
 道が大きく右に折れて下り坂になる。さらに空気の湿り気が増し、より新鮮味を帯びてくる。イフチアンドルは、足元が石畳になったのを感じて、歩みを遅め立ち止まる。そして厚いレンズがはまった水中眼鏡・手ビレ・足ヒレを身につけると、肺の空気を吐き出してプールへと飛び込んだ。心地よい新鮮な水が身体をつつみ、ひんやりとエラをぬらす。エラ穴がリズミカルに動き始める。人は魚となった。
 イフチアンドルが力強く手で水を掻くと、プールの底に到着する。
 真の暗闇の中、彼は迷うことなく泳ぎ、手を伸ばして石の壁の掛け金に触れる。その近くには別の……第三の金具がある。その向こうには、水中トンネルだ。
 冷たい水の流れに逆らって水底を歩く。水は下から押し出され、上に向かって流れていく。まるで暖かい風呂につかっているようだ。庭園のプールで暖められた水は、トンネルの上部から海へと流れていくのだ。
 イフチアンドルはその流れに乗る。両手を胸の上で組み、仰向けになり、頭を先にして流れていく。トンネルの終わりが近づいてきた。海への出口付近の岩の裂け目から、勢いよく温泉が吹き出している。海底の石や貝殻が、さらさら言っている。
 イフチアンドルは胸を張って先を見る。あたりは暗い。手を前に伸ばす。
 水が少しずつ新鮮になってくる。指先が柔らかな海藻と、ゴツゴツしたフジツボに覆われた鉄格子に触る。彼は鉄格子にしがみつき、複雑な錠を操作した。
 トンネルの出口を塞いでいた円形の鉄格子の扉が、ゆっくりと開く。彼がその隙間に滑り込む。その後ろで扉がバタンと閉まる。
 手足の水かきを使って、両棲人間は海に出る。
 水中はまだ暗い。深い闇の中で、オウムガイの青白い光の点滅に、クラゲがぼんやりとした赤い光で返事をしているだけだ。しかしもうすぐ夜が明け、夜光性の動物たちは、その灯りを消していく。
 イフチアンドルは、エラに何千という、刺すような刺激を感じた。呼吸するほどに、いっそう息が苦しくなる。岩だらけの岬に近づいたからだ。岬のあたりの海水は、川から流れ込んでくる淡水と海水が混じり合い、砂とアルミ粒子と様々な廃棄物で濁っている。
(こんな泥だらけの真水の中で生きていられるなんて、川魚はすごいなぁ)と、イフチアンドルは思う。(たぶん泥や砂に対してエラが鈍感なんだろうな)
 彼は、やや上昇してから右に急旋回して南に向かい、そこで下降してきれいな水域に入る。
 イフチアンドルは、寒流を東にそらせるパラナ川の合流点まで、海岸に沿って南から北に流れる寒流に入る。この海流はとても深いところを流れているけれど、上の方は海面から十五メートルから二十メートルのところにある。イフチアンドルはこの流れに身をゆだねた。それは彼を大海原に 連れていってくれる。
 ちょっと居眠りすることができる。危険はない。まだ暗くて海の捕食者たちは眠っている。日の出前の居眠りは、とても気持ちが良い。肌が水温の変化と水の流れをを感じ取っている。
 耳が、何かがぶつかり合う鈍い音を聞く。もうひとつ、そして三つ目。この雷鳴は、イフチアンドルから数キロ離れた入り江内で、漁船が錨を上げる音だ。
 夜明けが近い。とても遠くから、安定した轟きが聞こえてくる。『ホロックス号』(ブエノスアイレスとリバプールをむすぶイギリスの大型外航汽船)のスクリューとモーター音だ。ホロックス号は四十キロも先にいる。しかし聞こえるのだ! 海水は、毎秒一万五千メートルも音を伝えるからだ。
 夜のホロックス号は、どんなに美しいことか。光にあふれた本物の浮遊都市だ!
 しかし夜それを見たいなら、夕方から外海まで泳いでいかなければならない。
 ホロックス号は、朝日に照らされたブエノスアイレスに到着し、すでに明かりは消されているだろう。いやそれよりも、もう居眠りしている場合ではない。ホロックス号のスクリュー・舵・エンジン・船体の振動・舷窓やサーチライトの光が、海の住人たちを目覚めさせたからだ。
 多分イルカたちはホロックス号の接近に最初に気づき、数分前に少しばかり騒ぎだし、それがイフチアンドルを警戒させたのだ。そしてイルカたちは、すでに汽船に向かって泳いでいっただろう。
 あちこちから、船のエンジン音が聞こえ、港と入り江が目覚めていく。
 イフチアンドルは、目を開け、頭をふり、腕を振ると、水を蹴って海面に浮かぶ。
彼は慎重に頭を海面に出し、周囲を見回した。付近にはボートも帆船もいない。彼は腰まで浮かぶと、ゆっくりと足を動かした。
鵜やカモメが海面近くを飛び、ときどき胸や翼の先で海面に触れ、ゆっくりと広がる波紋を残す。白いカモメが、泣いている子どものように叫んでいる。イフチアンドルの頭上を、巨大な白いアホウドリが飛んでいく。風切羽は黒、嘴は赤くて先端は黄色、足はオレンジ色だ。アホウドリは入り江に向かっている。
 イフチアンドルは、羨望の眼差しで鳥を見上げた。アホウドリの黒い翼は、広げると少なくとも四メートルはある。あんな翼があったなら!
 夜は、西の山の向こうへと退けられている。東はすでに紅色。海面には穏やかなさざ波が現れ、その上に金色の小川が流れている。白いカモメが高度を上げると、ピンク色に染まる。青い海面に、色とりどりの青や紺色の道が描かれる。朝一番の風だ。青い道が、どんどん増えていく。風が強くなっていく。砂浜には、すでに黄色と白の波頭が現れている。海岸近くの海面が、緑色になる。
 釣り舟たちが、船隊を組んで近づいて来た。
 イフチアンドルは父親に、人々に見られないようにと、言いつけられている。彼は、深く潜って冷たい流れを見つける。流れはイフチアンドルを、海岸の方から外海に向けて運んでいく。
 深海は、青と紫の暗闇の世界だ。泳いでいる魚は薄緑色で、黒い斑点と縞模様があるように見える。赤や黄色やレモン色や茶色の魚が、色とりどりの蝶のようにごちゃ混ぜになって群れている。
 頭上で轟きが響き、海面に影が落ちる。軍の水上飛行艇が、低空飛行をしているのだ。
 あるとき、こんな水上飛行艇が着水していた。イフチアンドルこっそり飛行艇のフロートを支える鉄柱をつかみ、危うく命を落とすところだった。ふいに飛行艇は離陸し、彼は十メートルの高さから海に飛び込む羽目になったからだ。
 イフチアンドルが見上げると、太陽の光が、ほとんど頭上から差していた。正午が近いのだ。
 海面はもはや、浅瀬の岩や大きな魚、そしてイフチアンドル自身を映し出す鏡のようには見えなかった。今、鏡はアーチ状にゆがみ、たえず揺れ動いている。
 イフチアンドルは浮上し、波間に浮かんで、水中から顔を出す。波に持ち上げられ、下がり、また上がる。
(うわぁ、何が起こってるんだろう!)
 海岸ではすでに波が轟音を立て、岩を打っている。海岸近くの水は黄緑色に変わっている。南西からの鋭い風が吹き始める。波は次第に大きくなっていく。砕ける波頭は、飛び跳ねる白い子羊のようだ。波しぶきが、イフチアンドルに覆い被さってくる。彼はそれを喜んだ。
(どうしてだろう?)と、イフチアンドルは考えた。(波に向かって泳ぐと波は紺色に見えるのに、後ろを振り返ると青白く見える)
 長いヒレを持ったトビウオの群れが波頭から落ちてくる。最初は上がったり下がったりして、波頭や波の間のくぼみを通過し、やがて百メートル水上を飛んで波間に落ち、一~二分後にまた海面から跳び上がる。
 白いカモメたちが騒ぎ出す。
 最速のフリゲート艦のような鳥が、広い翼で風を切る。巨大な曲がった嘴、鋭い爪、緑がかったメタリックに輝く暗褐色の羽毛、オレンジ色の喉。オスだ。もう一隻のフリゲート艦は、色が薄く胸が白いメスだ。彼女は石のように落ちて海に飛び込み、再び現れた時には曲がった嘴の先端に青く輝く魚を咥えていた。アホウドリ……ミズナギドリが飛ぶ。嵐が来るのだ。この驚くべき勇敢な鳥は、嵐の雲に向かって飛び、その歌によって立ち向かう。
 しかし魚を捕る帆船や帆を張った優雅なヨットは、嵐から逃れようと海岸に向けて急いでいる。
 緑がかった薄暗い水中からでも、太陽の輝きは大きな明るい斑点として、見ることができる。方角を知るには、それで十分だ。
 雲が太陽を覆う前には、浅瀬に到着しないといけない。でないと朝食にさよならだ! ずっと空腹だったんだ。
 暗闇の中では、浅瀬も水中の岩も、どこにあるかわからなくなってしまう。
 イフチアンドルはカエルのように手足を力強く動かして泳ぐ。ときどき仰向けになって、厚い青緑色の濃い薄明かりの中にかろうじて見える太陽で、コースを確認する。注意深く、ときどき砂州に近づいていないかと前方を透かし見る。
 彼のエラと肌は、水の変化を感じ取る。浅瀬の近く塩分が薄くて酸素が濃いので、水が軽く気持ち良い。
 イフチアンドルは、舌でも水を味わった。彼は、年老いた経験豊富な年老いた船乗りのように、陸地が見えなくても、彼だけが知っている気配によって、その接近を知ることができるのだ。
 どんどん水が軽くなる。そして長年見慣れた水中の崖の影が、左右に迫ってくる。その間には台地があり、その後ろには石の壁がある。イフチアンドルは水中の入り江と呼んでいる。そこは激しい嵐の間も、とても静かだ。
 この静かな海底の入り江に、どれだけの魚が集まっているのだろう! まるで煮え立つ魚鍋だ。小さいやつ・黒いやつ・体の真ん中に黄色縞があり尾が黄色いやつ・斜めの黒い縞があるやつ・赤いやつ・青いやつ・紺色のやつ。
 魚たちは突然姿を消し、不意に同じ場所に現れる。浮上して上から見ると、魚が群れているはずなのに、姿が消えている。長い間その魚を捕まえてみるまで、イフチアンドルには、なぜそうなるのか、わからなかった。魚は手のひらぐらいの大きさだったが、完全に平らだった。だから、上から魚を見るのは、難しかったのだ。
 朝食だ。切り立った崖の近くの平らな場所に、牡蠣がたくさんいる。イフチアンドルは泳いでいって、貝の近くの平らな場所に横たわって食べ始める。そして牡蠣の身を貝殻から取り出しては、口に運ぶ。彼は水中での食事に慣れている。一粒を口に入れると、半分閉じた唇から、海水だけを吐き出すのだ。牡蠣の身と一緒に多少の海水は飲むことになるけれど、海水には慣れている。
 彼のまわりで、海藻が揺れている。穴の空いた斑点のある赤いテングサ。羽毛のような緑のクジャクソウ。繊細なピンク色のニチニチソウ……。でもいまは、全部灰色に見える。嵐と雷雨の間、水中は夕暮れのようだ。ときどき雷の音が聞こえる。
イフチアンドルの頭上に、黒い斑点が現れた。
(なぜ急に暗くなったんだろう?)
 イフチアンドルは、海面を見上げる。
(何だろう? ちょっと見てみよう)
 イフチアンドルは切り立った崖に沿って浮上し、頭上の影に慎重に近づいた。
 大きなアホウドリが浮かんでいる。
 イフチアンドルのすぐそばに、鳥のオレンジ色の足がある。
 彼は手を伸ばして、アホウドリの足をつかむ。鳥は怯えて翼を広げ飛び立ち、イフチアンドルを海から引き上げる。しかし空中ではイフチアンドルの身体が重すぎて、アホウドリは彼と一緒に胸から波に落ちる。
 イフチアンドルは、アホウドリが赤いくちばしで彼の頭をつつき出す前に海に潜り、数秒後に別の場所に浮上した。アホウドリは東に向かって飛び去ったところで、荒れ狂う嵐の向こうに姿を消した。
 イフチアンドルは、仰向けに浮かんだ。嵐は過ぎ去った。東のどこか遠くの方で、雷が鳴っている。けれどまだ土砂降りだ。
 イフチアンドルは嬉しそうに目を閉じる。彼は身体を起こし、半分海につかったまま、ようやく目を開け、周囲を見回す。
 彼は波の頂にいる。彼のまわりでは、空・海・風・雲・雨・波がすべて回転するボウルの中で混じり合い、うなりと轟音が、ゴウゴウと音を立てる。
 波頭には白波がうねり、波打ち際では怒った蛇が蛇行している。山のような波が雪崩のように押し寄せ、波が立ち、雨が轟き、猛烈な風が唸る。
 それは、陸の人々を脅しつけるが、イフチアンドルを喜ばせる。もちろん、注意しないと水の山が崩れ落ちてくる。けれどイフチアンドルは、魚のように波を乗りこなす方法を知っている。必要なのは、波を知ることだ。波は彼を上下に運んだり、彼を空中に投げ出したりする。
 彼は、波の下で何が起きているのかや、風が止むとどのように波が消えていくかも知っていた。
 最初に小さな波が消え、次に大きな波が消える。けれど陸へ向かう波は、すぐには消えない。彼は、海岸の波に巻かれるのも好きだったけれど、それが危険であることも知っていた。
 以前、突然波がイフチアンドルをひっくり返したことがある。彼は海底に頭を強く打ち、意識を失った。普通の人なら溺れるところだが、イフチアンドルの場合は水中に横たわっているだけですんでしまった。
 雨が止んだ。雷雲は東へと移動したようだ。
 風が変わって、熱帯である北からの暖かい風が吹いてきた。
 雲の切れ目に、青空が覗き始める。突如太陽の光が差し、波を打った。
 南東のまだ暗い空に、二重の虹がかかる。
 海は飽きさせない。海はもう鉛色ではなく、青く、陽が射したところに緑色の斑点が現れる。
 太陽だ! 空も海も海岸と遠くの遠くの山々も、一瞬にしてまるで別の物に変化した。嵐と雷雨の後の、軽くてしっとりした空気の、なんと素晴らしいことか!
 イフチアンドルは、気持ちのいい空気を肺に吸い込み、勢いよくエラ呼吸を始める。
 人間の中でただ一人、イフチアンドルだけが嵐・雷雨・風・波・雨が、空と海、空気と水を混ぜ合わせ酸素が飽和した後の呼吸が、どれほど気持ち良いか知っている。ありとあらゆる魚、そして全ての海の生き物たちが生気にあふれる。
 雷雨と嵐が過ぎると、海のジャングルの茂みから・岩の狭い隙間から・奇妙な珊瑚や海綿の茂みから、小さな魚が現れ、その後ろから大きな魚が現れる。
 海中が穏やかならば最後に繊細で弱いクラゲ・透明でほとんど重さのない甲殻類・クダクラゲ類・有櫛動物が、ピンクの光の中に現れる。
陽射しが波に落ちると、あたりはすぐに緑色に変わり、小さな泡が輝き、泡が音を立てる。イフチアンドルの近くで、彼の友だちであるイルカがはしゃぐ。
 イルカは陽気で賢く好奇心で一杯の目つきで彼を見る。彼らの黒い背中が波間で輝く。そしてイルカは水しぶきを上げ、鼻を鳴らし、追いかけっこをしながら彼を取り囲む。
 イフチアンドルは笑い、イルカを捕まえ、泳ぎ、一緒に潜る。イフチアンドルには、まるでこの海が、イルカたちが、空や太陽が、自分のためにあるかのように思えた。

 ***

 イフチアンドルは頭を上げ、目を細めて太陽を見る。太陽はすでに西に傾き、もうすぐ日が暮れる。しかし、今日はすぐに帰りたくなかった。空が暗くなり星がまたたくまで、波に揺られてみる。
 けれどすぐに、何もしないことに退屈した。小さな海の生き物たちが、身近な場所で命を失っている。イフチアンドルなら、彼らを救うことができる。彼は海面に出て、向こうの方の海岸を見た。あの砂嘴近くの浅瀬へ! あそここそ彼の助けが求められている場所だ。そのあたりの磯波は、荒れ狂っている。
 嵐のたびに、荒波が大量の藻や海の生き物を、海岸に打ち上げる。クラゲ、カニ、ヒトデ、そして時には不注意なイルカをも。
 クラゲはすぐに死んでしまうし、魚の一部は海にたどり着くけれど、たいがいは海岸で死んでしまう。カニはほとんど海に帰っていく。けれど、彼らは嵐の犠牲者を食べるために、海から海岸にやってくるのだ。
 イフチアンドルは、浜辺に打ち上げられた海の生き物を助けるのが、大好きだ。嵐の後、彼は生き物を救うために、海岸に沿って何時間も歩き回った。彼は、水に放り込まれた魚が元気よく尾を振って泳ぎ去る様子を見て、ウキウキした。最初は生気なく横たわり、あるいは腹を見せて浮いていた魚が、ついに生き返って泳ぎだすと、本当に嬉しかった。
 浜辺で大きな魚を拾い上げ、それを海まで運ぶ。魚は手の中で暴れたので、彼は笑いながら、あらがわず少し我慢するよう、魚を説得する。
 確かにお腹が減っているとき、海でその魚を捕まえたなら、彼は喜んでその魚を食べるだろう。しかしそれは、避けることができない必要悪だ。今この海岸では、彼は海で暮らす生き物たちの守護者であり、友人であり、救い主なのだ。
 イフチアンドルは、いつもなら来た時と同じように、水中の海流を利用して家に帰る。しかし今日は、水の中に潜るのが惜しかった。海と空があまりにも美しかったからだ。
 若者は魚を狙う海鳥のように潜り、水中を泳ぎ、再び海面に現れる。
 太陽の最後の光も、もう消えた。西にはまだ黄色い夕焼けが残っている。濃い灰色の影のような薄暗い波が、次々と押し寄せてくる。
 冷たい空気に冷やされた身体には、海水が暖かく心地よい。あたりは暗いけれど、怖くはない。この時間帯に攻撃してくる敵はいない。日中の捕食者は、すでに眠りについているし、夜の捕食者は、まだ狩りに出てきていないからだ。

  ***

 彼が必要とするのは、海面近くを流れる、北から南への海流だ。不安定な伏流は上下に蛇行しているけれど、暑い北から寒い南に向かってゆっくりと流れ続けている。そしてそのもっと下には、南から北へ流れる寒流がある。
 イフチアンドルは、長い時間かけて海岸沿いに長時間泳ぐ必要があるときに、これらの流れを利用する。
 今日は北まで泳ぎすぎた。今は、この暖流が彼をトンネルに連れて行ってくれる。
 ただ、以前彼は、居眠りをして行きすぎたことがある。彼は、居眠りをしないように体操をする。まず頭の後ろで手を組み、それから横に延ばし、最後に姿勢を正す。足を同時に曲げ、そして広げ、元に戻す。流れは彼を南へと運んでいく。暖かい海水と、ゆっくりとした手足の動きは、彼を落ち着かせる効果がある。
 イフチアンドルが見上げると、彼の前には、塵のように小さな星屑が海中にアーチを描いている。灯りを燈した夜光虫たちが、海面へと浮上してきたのだ。
 場所によっては、暗闇の中に青みがかった星雲や、ピンク色に光る星雲が見える。それも、ぎっしりと集まった、極小さな発光する生き物たちだ。柔らかな緑色の光を放つ球体が、ゆっくりと漂っている。
 イフチアンドルのすぐ近くにいるのは、レースの縁取りと長い房飾りのついたランプシェードそのままの、輝くクラゲだ。クラゲの動きにつれて、そよ風に揺らいでいるかのように、房飾りもゆっくりと動いている。
 砂州のヒトデはすでに灯りを燈している。深みでは、夜行性の大型の捕食者たちの灯りが素早く動いている。それらは互いを追い回し、灯りが消え、そして再び燃え上がる。
 次の浅瀬では、サンゴが方々に伸ばした幹や枝が、青・ピンク・緑・白い炎で、内側から照らし出されている。サンゴの中には、青白い炎を点滅させているものや、白熱した金属のように輝いているものもある。
 地上の夜の空には、遠い小さな空の星と、時には月しかない。けれどここには何千の星があり、何千もの月があり、何千もの小さな色とりどりの太陽があり、柔らかく優しい光で燃えている。
 海の夜は、陸の夜とは比較にならないほど美しい。
 イフチアンドルは、比べてみようと海面に浮上した。空気が暖かくなっている。頭上には星が輝く濃紺の空がある。銀色の月の円盤は、地平線上にあり、月から銀色の道が、海の上に伸びている。
 低く重く長い汽笛が、港から聞こえてくる。巨大なホロックス号が帰港しようとしているのだ。ということは、かなり遅くなってしまった! まもなく夜明けがやってくる。イフチアンドルは、ほとんど二十四時間家を空けてしまった。父親に叱られるに違いない。
 彼はトンネルに向かい、鉄格子の隙間に手を突っ込んでそれを開けると、真っ暗闇の中を流されていく。帰りは、海から庭のプールへと引き込まれる冷たい流れに乗ることになる。
 肩に感じる軽い圧力が、彼を眠りから引き戻す。彼はプールの中にいる。すぐにプールから上がり、彼は肺で呼吸を始め、馴染みのある花の香りで満たされた空気を吸い込む。 数分後、彼は父親の言いつけ通り、ベッドでぐっすりと眠っていた。

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